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センシティブな作品

江戸時代中期の佐賀藩士・山本常朝が著した「葉隠」の台詞。聞書第一の章に記載されている。

「武士道と云ふは、死ぬ事と見つけたり」

概要

葉隠自体は当時の武士道を論じた書としては異質なもので、これが武士道の本質であると一概に言えるわけではない。実際、江戸時代に普及したものでもない。

しかし、戦時中には神風特攻隊などの正当化の為に利用されこの一句は戦後に悪名を買った。

終戦から20年以上を経た昭和42年(1967)9月にかの三島由紀夫は『葉隠入門』を光文社ら出版し、ベストセラーになった。難解と言われていた「葉隠」を三島流で解説、多くの人が気軽に手にしたことで『葉隠入門』で日本中に葉隠ブームが巻き起こった。

山本常朝『葉隠」

武士道の本質は、死ぬことだと知った(武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。)

生死の二極においては、早く死ぬ方を選ぶということにすぎない。余計な事は考えず進むのだ。

「事を貫徹できず死ぬなら犬死だ」等というのは、上方風の思いあがった打算的武士道に過ぎない。

二者一択に迫られば、どちらに進めば事に当たれるかどうか等、わかる余裕はない

誰だって生きる方が好きだ。大方、生きることに理屈を付けようとする。

もし事に当たれずに生き永らえば、腰抜けと誹りを受けるだろう。ここら辺が難しい。

事に当たれず死に絶えたなら、犬死だ、気狂いだと謗らようと、恥にはならず。

それこそ、武士道の丈夫だ。

毎朝毎夕日々日々死を覚悟し、死身になれば、武士道を会得し、

一生誤ることもなく、武士としての奉公を果たせるだろう。

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