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アレクサンデル・セウェルスの編集履歴

2012-10-09 23:01:43 バージョン

アレクサンデル・セウェルス

あれくさんでるせうぇるす

ローマ元首(24代)ヘリオガバルスの弟(血のつながりはない)で後任の元首として推挙された。 治世12年 即位18歳 ガリア防衛の際に赴くと、マクシミヌスの軍団の大反乱が発生し。そこで殺害される。

ローマ元首(24代)ヘリオガバルスの弟(血のつながりはない) 治世12年 即位18歳

ヘリオガバルスのあまりの素行の悪さに失望し、彼を葬り去り新たにローマ元首として粗ばれた弟分である。彼はローマ式の質実剛健な教育を受けていたため、真面目であった。


20歳過ぎてもこの元首の公の公務を一人で行うことができず、母親(皇后)や補佐元老議員の顔色をうかがいながら内政を統治した。結局こうゆう生活は「マザコン」ととらえられた。


当然軍を指揮をする経験も度胸もなくこれが命取りとなりローマ帝国軍になめられぱなしであった、235年の属州ガリアの蛮族の蜂起の際に、一応インペラートルということなので最前線に赴くことになったが、やはり帝国軍の指揮を上げるどころか下げる結果となってしまった。


マクシミヌスの乱

とうとうこの事態を憂いたローマ帝国軍の切り込み隊長マクシミヌス・トラクスが自身の部隊を引き連れて蜂起した、当然他の軍団はこの反乱を止める行動に出たが思いもよらぬことに、反乱を止めにいった軍団がマクシミヌスの言い分をを公然と認め一軍は反乱に加担し始めてしまった。『マクシミヌスの乱』である。


アレクサンデルはマクシミヌスと電撃会談をし、どちらが指導者にふさわしいか帝国軍兵士に決めてもらうことにした。結果マクシミヌスが兵士の大っぴらな支持を受けてしまった。アレクサンデルは意気消沈しマクシミヌスに命乞いをしたり恐慌したりしたが、マクシミヌスは当然のごとくアレクサンデルを葬り去る名を出し。彼とその母(皇后)と一族をめった切りにしてしまった。


アレクサンデル惨殺後、兵士たちの支持を得てマクシミヌス・トラクスが晴れてローマ元首を宣言した。

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