概要
近代の日本に存在したとされた想像上のイデオロギー装置。
この用語は戦後に人口に膾炙するようになったものであり、戦前たまに用いられる場合には、「神社神道が国家管理されている状態」のことをいう用語であった。
しかし戦後になって、「国家神道が明治以来の狂信的な天皇崇拝思想を鼓舞し、事実上の国教として政府に優遇されたばかりか、神社参拝は国民に強要され、神社の信仰と対立するような宗教は弾圧され、国民の信教の自由は踏みにじられた」と妄想されるようになった。
戦前
加藤玄智
本来の「国家神道」観を転換したのは、浄土真宗の信仰を持ち、東京帝国大学で宗教学を教えていた加藤玄智である。
大正・昭和を通じて神道研究に関する著作を出した加藤が昭和元年に英文で書いた本に、「日本には現人神信仰を注入するために神社神道と学校教育とを結合した巨大なイデオロギー装置としての『国家的神道』が存在している」という「国家神道」像が登場した。
そうは言っても、加藤の説は当時の一般的な認識と異なるだけでなく、決して現状を正確に捉え、的確に言い表したものではなかった。天皇や皇祖皇宗を絶対神として崇拝すべきだとする教育など、明治以来この方行われていなかったのである。それもそのはずで、一神教的天皇観の提唱者が加藤であった。
つまり、加藤の言う「国家神道」とは実在するものではなく、加藤が想定した理想状態にすぎなかったのである。
加藤からホルトムへ
アメリカのD・C・ホルトムという人物は、「政治、教育および宗教の三者の合体」した「国家神道」が、明治維新以来、右肩上がりの発展を続けてきた結果、今日では「驚くべき上昇」「前代未聞の強力なもの」となったと言い、「国家神道が育成して来た超国家主義的な政策」として、「天皇による世界統治、日本民族の優越性の誇張、日本文化への偏執、世界同朋主義の嫉視排斥、日本の国体の他国のそれに対する卓越性、超自然主義と神話に基礎を置く専制政治、個性を完全に無視することによる民主主義の否定、被征服民族を日本民族に隷従させるやり方」などを列挙している。
加藤玄智によって理想として言い出された「国家的神道」が、ホルトムによって、明治以来の国是の延長線上に現れた昭和10年代の現実として、海外、とくにアメリカ人に伝えられた。彼の諸説が通俗化してアメリカ人の通説的な神道観となってしまったのである。
戦後
神道指令
加藤によって産み出され、ホルトムによって明治以来の来歴を有する「現実」として認識された「国家神道」が、戦後の日本人の意識を呪縛するきっかけとなったのは、占領軍が昭和20年12月15日に発したいわゆる「神道指令」であった。
「神道指令」の起草者W・K・バンスが、ホルトムの著書を熱心に読んだ結果、「神道指令」にいう「国家神道」の定義は、ホルトムの神道観に全面的に依拠することになった。
神話に由来する神聖な天皇・国民・国土という思想が侵略戦争イデオロギーとして悪用されたのが国家神道イデオロギーであり、このイデオロギーを国家管理された神社と教育を通じて国民に注入する装置が存在し、それが「国家神道」であった、とQHQは考えていた。
GHQの絶対的権力によって押しつけられた、この「神道指令」の「国家神道」観から戦後の「国家神道」論は決定的に拘束されてきた。
藤谷俊雄
戦前における加藤の「国家的神道」論は、大正期後半以降に登場した新説にすぎなかった。ところが、「神道指令」に発する戦後の「国家神道」論が、日本の独立回復後に日本の知識人の手によって拡大解釈され、「戦前の通説」として位置づけられるようになった。
学界では藤谷俊雄、村上重良といた人々が「国家神道」を誇大妄想の域にまで拡大していった。
藤谷はホルトムの議論やそれに依拠した「神道指令」の「国家神道」の思想を、幕末維新期に日本政府が選択した「尊皇」路線と同一視し、明治以来、近代全般にわたって存在して、右肩上がりの発展を続けてきた結果として描いてみせた。
村上重良
さらにここにホルトムの議論を加味して虚像を完成させたのが村上であった。
「国家神道」は「神社神道」と「皇室神道」の結合であり、この「国家神道」が教派神道、仏教、キリスト教という「公認宗教に君臨」し、この君臨状態を「国家神道体制」とし、この体制を支えたのが「帝国憲法」(明治22年)であり、「教育勅語」(明治23年)であり、「治安維持法」(大正14年)であり、「宗教団体法」(昭和14年)であったとする。
村上によれば「国家神道の教義」は帝国憲法発布から日露戦争の時期に完成したとし、天皇崇拝を主軸とし、排外主義をもたらすものであったと主張し、その末期にはさらに「侵略の教義」が付け加えられたと言う。さらに、満洲事変から太平洋戦争敗戦までの期間には、この侵略の教義」が国家神道イデオロギーの忠臣になったと主張し、この時期が、村上論においては「絶頂期」「真価を、遺憾なく発揮した」時期だと認定されている。つまり、満洲事変以後の姿こそ「国家神道」の本質なのであり、明治維新以降の歴史は、「国家神道」がその正体を次第に露呈していく右肩上がりの過程だったというのである。
だがもちろん、村上の議論は、戦前の現実には適合していなかった。
宮沢俊義
村上重良流の「国家神道」論を憲法学界に広めたのが、戦後憲法学界の大御所的存在であった宮沢俊義であった。
宮沢は、明治23年に施行された大日本帝国憲法の下における宗教の状況を説明するという立場で書いた文の中で、村上説にあった近代における「国家神道」の段階的発展という視点が退いて、帝国憲法下においてははじめから「国家神道」状態であったと錯覚させる記述をし、教育においても明治の初期から神権天皇主義教育が徹底されていたのだと、戦後の法学者に解説した。
このことが憲法界・司法界に大きな禍根を残し、近年の学問的成果をまったく無視した極論が最高裁や交際の判決文など裁判の場で横行するという状況をもたらした。
「国家神道」の実像
昭和6年7月、東大教授の河合栄治郎は、それまでマルクス主義に対抗できるだけの日本的な思想体系がなかったことを嘆き、文部省が中心となってその創出をすべきだと提唱した。つまり、明治時代からイデオロギーが存在し、それが教育を通じて注入されていたというという主張は、事実ではない。そして神社神道は戦争中も、イデオロギーとしても、イデオロギー装置としても、まったくと言ってよいほど機能していなかったようである。
神社参拝
国民個人に対しる「法的強制」も存在しなかった。日支事変中の昭和14年でさえ、神社参拝を拒否した億民を罰する法はなく、国民に参拝を強制するこちはできなかった。
ただし「事実上の強制」は満洲事変以後に次第に圧力を強めていき、実際上、昭和14年からそう遠くない過去、参拝拒否は不可能な状況という、大日本帝国憲法に違反する状態になった。
大日本帝国憲法においては、天皇と天皇の祖先に対する「敬礼」さえ怠らなければ、どんな宗教を信じようと自由であり、その「敬礼」とは、「憲法上の権利を濫用して天皇を干瀆し、または他人の隠私を摘発して徒に讒誣を長ずる」というようなことがないようにすること、と同じ類のものであった。すなわち「敬礼」に「神社参拝」は含まれていなかった。
他方で、「信教と敬礼とは区別すべきであり、その敬礼を欠くときは、信教についても当然に制限を受ける」と解釈された。何が「宗教儀礼とは区別された敬礼」に当たるかというと、それぞれの宗教・宗派の間で意見が分かれた。
その中で、教育勅語への「礼拝」を、尊敬の表現ではなく宗教的な意味と勘違いして、区別して「敬礼」にとどめる「内村鑑三不敬事件」が起こり、いわゆる「教育と宗教の衝突」へと発展した。しかし、この一連の事件についても、政府、特に警察がまったく介入せずに自由な議論を許していた。
すなわち帝国憲法は、「信教の自由」解釈論争の自由をみとめる立場をとった。社会上の論争は激しかったが、少なくとも明治大正時代には国家権力はその論争に介入しなかった。糾弾する者も反論する者も、その解釈論は異なっていてもいずれも帝国憲法・教育勅語支持の立場を明確にしており、帝国憲法の下にある国家権力として、その論争に介入する理由がなかったのである。
明治時代には、憲法解釈上、神社参拝はまったく問題にされなかった。しかしいつからか神社をめぐる問題が発生し、それが昭和初期に深刻化した。しかしその際には、神社に対する宗教的な行為を国民に強制することはできないとの論陣が、有力学者たちによって張られた。
しかし昭和10年代になると、神社局の見解が一変して「神社崇敬は国民の憲法上の義務である」との解釈に変わり、有力学者もそれに同調せざるを得ない状況になっていった。