大和型戦艦の2番艦として三菱重工業長崎造船所にて1938年建造開始、1940年進水、1942年完成。
太平洋戦争では1943年5月まで内地にて温存され続け、その後はマリアナ沖海戦、第三次渾作戦などに参加するも、その攻撃力を発揮する機会には恵まれなかった。
1944年10月、レイテ沖海戦に出撃のおり、米軍機から集中攻撃を受け艦隊から落伍、その後も波状攻撃を受け続け、魚雷20本被雷、爆弾17発命中、至近弾20発以上(諸説あり)という空前絶後の損害を受けて戦没した。
沈没間際の酸鼻を極める艦上の有様は、当時水兵として実際に武蔵に乗り組んでいた渡辺清の著作『戦艦武蔵のさいご』で克明に描かれ、戦後生まれの世代にも広く知られている。
建造過程
三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、3隻目(土佐を除く)となる。
僚艦同様本艦の建造は極秘とされ、船台の周囲には漁具(魚網等)に使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、棕櫚の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」と呼んでいたという。また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫を建造するなど(長崎市営常盤町倉庫)、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した。
このような厳重な機密保持のもとではあったが、新人製図工による図面紛失事件や、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため,当日を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置した。このような厳重な警戒態勢の中で進水式は挙行された。
進水時に進水台を潤滑する、獣脂の調製・製造にも骨を折ったといわれる。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から、狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、周辺の海岸に予想外の高波を発生させた。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている。 また、客船についてのノウハウを持つ民間の三菱重工業長崎造船所の艤装技術が盛り込まれ、大和よりも内装は豪華であったともされている。
戦艦武蔵は、現在までのところ、日本が建造した最後の戦艦である。
艦歴
1938年 - 3月29日 三菱重工業長崎造船所にて起工。
1940年 - 11月1日 進水。
1942年 - 8月5日 呉にて竣工。横須賀鎮守府籍に編入。
1943年 - 2月12日 連合艦隊の旗艦となる。
この間連合艦隊司令長官山本五十六が戦死(海軍甲事件)。
1943年 - 5月17日 金剛・榛名とともに山本五十六長官の遺骨を乗せてトラック島から横須賀へ帰還。これが武蔵の初任務となった。その後呉またはトラックに駐留し、ガダルカナル方面への戦闘にも参加していない。そのため『武蔵御殿』と揶揄されていた。
1944年 - 2月24日 陸軍部隊輸送に参加。29日パラオに到着。
1944年 - 3月29日 米潜水艦タニーの雷撃を受け、浸水2600t、戦死者7名、負傷者11人の被害を出して呉に到着。
1944年 - 4月22日 呉で対空戦闘の為の改装工事完了。25mm三連機銃18基増設。
1944年 - 5月4日 巡洋艦大淀に連合艦隊旗艦を譲る。
1944年 - 6月15日 マリアナ沖海戦参加。
1944年 - 10月22日 レイテ沖海戦参加。
1944年 - 10月23日 パラワン水道にて摩耶の乗組員769名を救助。
1944年 - 10月24日 シブヤン海にて沈没。[1]
2010年 - 戦艦武蔵の士官室に備え付けられていた姿見用鏡が、元武蔵乗組員から横須賀市の居酒屋信濃に寄贈され、店内で展示されている。
レイテ沖海戦
戦闘経過
1944年10月24日 9:30 大和の見張員がアメリカ陸軍偵察機を発見
10:00頃 能代のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見。
10:25 敵機約40機 を見張員が発見。しかし乱積雲の中に見失う。
10:25~10:27 第一次空襲(44機。うち武蔵への来襲機数17機)。見失った敵編隊が右舷の雲間より急襲。被弾1、被雷1、至近弾4。被弾は一番主砲塔天蓋だが装甲により砲塔への被害無し。至近弾により艦首水線下に僅かに漏水。被雷の衝撃により前部主砲射撃方位盤故障。浸水により右舷に5.5度傾斜するも注排水により傾斜角右1度まで回復。
11:38~11:45 第二次空襲(来襲機数16機)。被弾2、被雷3、至近弾5。被雷の浸水により今度は左舷に5度傾斜するも排水により傾斜角左1度まで回復。艦首が戦闘開始前に比べ約2m沈下。甲板を貫通した250㎏爆弾が第十兵員室で炸裂、第2機械室の主蒸気管を破損し室内が水蒸気で充満。火焔の侵入と重なり第2機械室は使用不能に陥る。これにより3軸運転、最大速力22ktに低下。
12:17 第三次空襲(来襲機数13機)。被弾0、被雷1、至近弾3。被雷により測程儀室・測深儀室破壊。前部戦時治療室がガス充満の為使用不能。戦闘後、司令部より「コロンへ向かえ」との命令が下る。
12:23~12:53 第四次空襲(来襲機数20機)。被弾4、被雷4。再び右舷に大きく傾斜するも排水により傾斜角右1度まで回復。艦首、更に3m沈下したためトリム修正の為の注水を行う。最大速力16ノット。艦隊輪型陣から落伍。司令部から「付近の港に退避するか浅瀬に乗り上げ適当なる応急対策を講ぜよ」と下命。「武蔵の北方に在りて警戒に任ぜよ」との命令に従い、栗田艦隊第二部隊の駆逐艦「清霜」「浜風」巡洋艦「利根」が護衛に付く。(利根は直後に原隊に復帰するように下命)
13:15 第五次空襲(来襲機数0機)。艦隊輪型陣から離脱していたため攻撃を受けず。大和、長門に攻撃集中。なお武蔵は大和への援護射撃で敵機5機を撃墜と報告している。
14:45~15:21 第六次空襲(来襲機数75機)。集中攻撃を受け、爆弾10発以上、魚雷11発以上、至近弾6発以上を受け大火災を起こす。またしても左舷に10度傾斜、取舵と注排水により左6度まで回復。艦首更に4m以上沈下し一番砲塔左舷側まで波で洗われる状態となる。
前部艦橋にも直撃弾、航海長・高射長など准士官以上11名を含む57名戦死。猪口艦長も右肩に重傷を負うも指揮続行。これ以上の戦力発揮は不可能と判断し、司令部へ摩耶乗組員の生存者の移乗を打診。
17:30頃 摩耶乗組員の生存者と武蔵乗組員の負傷者が舷側に接弦した駆逐艦島風に移乗[1]。1軸のみ使用可能で、6ノットにて微速航行。
19:15 傾斜角暫時増大し左舷12度となり傾斜復旧の見込み無し。総員退去用意下命。軍艦旗降下。
19:30 傾斜角30度。総員退艦命令。
19:35 左舷に転覆、連続爆発2回、艦首より沈没。沈没位置東経122度32分・北緯13度7分・水深800m。
沈没までの経緯
対空機銃設置前(1943年6月24日)レイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦において、米軍機の雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という軍艦史上最多・空前絶後の損害を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと及び機関部が健在であったことにより、沈没に至る過程において速度は低下したものの回避運動が可能であったため、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、米軍はこの戦闘を教訓として昭和20年4月の天一号作戦時の「大和」への攻撃を左舷に集中させたとされる。副長の加藤憲吉のメモによれば魚雷命中、右舷に5本左舷に25本、爆弾の直撃17発至近弾18を受けたと記録されている。一方米軍の記録には、爆弾命中44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発と記録した。
防水作業、復旧作業に従事した人物の手記が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したようである。後部甲板に兵員を集めて、上部士官より説明があった後に重量物の移動や排水作業を開始したが、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる・・・と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だったと記載されている。
昭和19年10月24日午後、速度の低下した武蔵は艦隊から落伍。駆逐艦「清霜」に伴われてコロン湾を目指したが、現地時間19時35分頃、ついに艦尾を高々と上げて沈没した。沈没時には大爆発を起こしたという記載もある。
武蔵の沈没に伴う戦死者は猪口敏平艦長以下1021名、生存者は1376名。
生存者の半数以上はフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死してしまった。他にも「隼鷹」で日本へ帰還出来た乗組員もいたが、その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。沈没地点は猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載したものが採用されているが、沈没地点が深海のために船体は確認されていない。
「大和」よりも遅れて起工された本艦には、「大和」建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示された[1]。しかし、もとよりドック内で建造された「大和」と異なり、船台上で建造された武蔵は、船台から海面に下ろし進水させるという余分なステップを踏まねばならなかった。更に工事の途中で太平洋戦争が勃発した為、工期を大幅に繰り上げるよう厳しく督促された。厳重な機密保持の中、作業に当たった人々は、超人的な努力で事に当たり、見事に成し遂げたのである。これらの経緯は吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂/古賀繁一監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。
レイテ沖海戦までに高角砲増設工事が間に合わなかった為、「大和」とは兵装が若干異なり、対空噴進砲(対空ロケットランチャー)を積んでいたという説もある[2]が、その存在を実証する史料は現在のところ発見されていない。 また捷一号作戦発動に際し10月18日に夜間迷彩として木甲板を黒い塗料で塗装した為、最終時の最上甲板は黒色だったと思われるが、塗料の材質は不明(砥の粉で磨かれていたという説や煤を溶剤に溶かしたものだという説がある)。
第1次空襲で外周の駆逐艦、巡洋艦の砲火をくぐりぬけた米軍機は武蔵に殺到。(殺到の原因については当然武蔵が巨大だった事が最大の要因だが、武蔵を主軸にした書物などではリンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗り直した為一番目立っていたのも要因とされることがある)爆弾1発が命中したが、厚い装甲が跳ね返し、空中で爆発(船体に被害なし)。その後の攻撃でも度々主砲塔には爆弾が命中したとされるが、全て装甲で弾き返し被害はなかったとされる[1]。この攻撃では3本の魚雷が武蔵に向かって放たれたが2本は船底の下を通り抜けた。しかし1本が命中。この衝撃で艦橋トップの照準装置の台座が歪んで旋回不能となり、全砲塔の統一射撃が不可能となった。その後はそれぞれの主砲塔に設置してある照準システム及び後部艦橋の予備システムで射撃を続行した。(被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した、と証言する乗員も居る。ただし公式記録によれば第一次空襲於ける主砲の発砲は無い)。艦は5°傾斜したが、注水し復元。
第二次空襲で主砲は上記理由のために個別射撃のみ。主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受ける(異説あり)。魚雷3発と爆弾2発が命中。水平装甲板上で炸裂した爆弾による爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損したために内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となり3軸運転、最大速力は22ノットに落ちた。また1番2番主砲塔は魚雷命中による弾薬庫の直接の被害は無かったが、庫内温度が上昇し、弾薬庫に注水作業をしたため使用不能となる。
最終的に武蔵は爆弾10発以上、魚雷20本以上が命中して大火災を起こし、艦の前部に著しい浸水を見た本艦は前後の傾斜差が8メートルを超え前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになったため必死の浸水防止の対策が採られた。栗田長官から撤退命令を受けたあと、復旧作業をしながらフィリピンのコロン湾を目指した。傾斜復旧のための注水作業(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われ、沈没の直前には右舷の缶室(ボイラー室)6個のうち、外側の3つについて注水作業の命令があり、満水になるまでかなりの時間が必要なので、どの程度の効果があったか不明であるが、少なくとも1つについては実際に艦底のバルブが開かれて注水が行われた。浸水は拡大する一方で、最後の機械室にもついに浸水が及び停止してしまう[1]。また、左舷への傾斜が10°を超えたため、傾斜復旧作業の一環として機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体を右舷に移す作業も行われたが、これらは後ほど傾斜が酷くなったときに、一斉に甲板上を右舷から左舷に滑落し、巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいたといわれる。
19時15分頃航行不能に陥り左傾斜十二度となったため、猪口艦長より"総員上甲板"が発令され、軍艦旗降下後間もなくの19時30分頃急速に傾斜を増したため総員退去命令が発せられ、ついに19時35分頃左舷に転覆し沈没した。
沈没時には煙突等艦内に流入する海水により大渦が出来、完全に艦体が海没後、船体が大爆発を起こしたことが目撃されている。(この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等諸説ある)
戦闘時の混乱で、正確な被雷爆数は現在でも不明だとされる。戦闘終了後数時間以上に渡って浮き続け、微速ながら前進を止めなかったのは本艦の驚異的防御力を示したものの、ついには航空攻撃の前に不沈艦たり得なかった。猪口敏平艦長は、「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」という言葉を副長に託した手帳に残した。尚、沈没までの対空戦闘で前日潜水艦の雷撃により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた「摩耶」の乗員も多数犠牲になっている。
駆逐艦「清霜」が復旧作業中に武蔵に横付けされ、負傷者や摩耶の一部生存者などが移乗した。こういった様々な要素等が日本の艦船においては比較的高い生存率を示すことになった。しかしまた武蔵が沈没すると判断されておらず、殆どのものが武蔵に残って復旧作業を行ったが、武蔵の傾斜が更に酷くなって再度、駆逐艦「清霜」に接近するように武蔵から発光信号が送られたものの、沈没の巻き添えを回避するために、それは叶わなかった。
海に飛び込んだ乗組員は武蔵沈没時の大渦に巻き込まれたり、武蔵の爆発により圧死したりした者もいたといわれるが、随伴していた駆逐艦「清霜」、「浜風」に約1350名が救助された。救助作業は約7時間に渡ったといわれる。
沈没直前の艦前方が半ば海面下に没した写真は、武蔵最期の姿として有名である。
沈没の直接的原因
戦闘終了後、復旧作業が実施され、沈没まで時間があったため、比較的詳細な被害報告が残されている。沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水である。特に1番主砲塔より前の非防御区画は、魚雷が4-5本命中したために全部浸水してしまった。一方後部区画には魚雷の命中は少なく浸水は殆どなかったようである。またヴァイタルパート内部においては、1番2番主砲火薬庫区画には魚雷による浸水は報告されていないものの、温度上昇により注水処置が行われた。以上によって艦前半部の浮力が殆ど失われてしまった。4列ある機関区の外側の区画も、度重なる同一部位への魚雷命中により、バルジや水面下装甲板を破壊され大浸水をきたした。隔壁の破壊を逃れた区画も、船体の沈下に伴い通気孔などからの緩徐な浸水に見舞われた。
左舷外側の3室の缶室は、1つは魚雷によって隔壁が破壊され瞬時に水没した(同一部位への重複した魚雷命中によるとされている)。また1室は魚雷攻撃により隔壁からの漏水が発生し、防水処置をしたものの、その後の魚雷命中の衝撃で、打ち込んだ楔などが全て吹き飛ぶなどしたために、最終的に乗員は腰まで海水に漬かった。もう1室についても緩徐な浸水に見舞われたが、隣室への防水扉を駆動する電気回路が故障したため、彼らは脱出不能となった。天井に穴をあける作業が行われたが、非常に厚い装甲板(200ミリ)だったため全員溺死した。内側の6室の缶室には浸水はなかった。右側外側の缶室は別記したように戦闘終了後に傾斜復旧のために、注水命令が下令されている。4室ある機械室(タービン室)も最終的に3室まで浸水が確認されている。