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平賀譲の編集履歴

2013-10-14 11:17:16 バージョン

平賀譲

ひらがゆずらず

平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年3月8日 - 1943年2月17日)は日本の造船技術者。工学者。海軍軍人。

平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年3月8日 - 1943年2月17日)は日本の造船技術者。工学者。海軍軍人。戦前、戦中日本のにおける造船工学の権威にして東大総長在任中に死去した唯一の人物。


人物

戦前における造船技術の権威で、既存の技術を元にエポックメーカー的な艦艇を設計する達人。逆に言えば、彼の手によって設計された艦は力業で切り抜ける設計が多いのが特徴である。

艦橋支柱を40cm砲射撃時の爆風負荷を軽減するために従来型の三本脚から7本に増やした八八艦隊計画艦の長門型のメインマスト、3300t級の船体で5500t並に匹敵する重武装を施す為に船体に駆逐艦設計手法を応用した夕張、軽巡洋艦に20cm級の艦砲を詰め込むかに重点を置いただけの古鷹型などどれも力業で切り抜けている。


必然的に無理矢理の犠牲は何某かにしわ寄せを強いることになり、古鷹型以降の帝国海軍艦艇の多くは兵装の搭載過多による居住性の悪化と航続力、速力の低下という形で弊害を持つ傾向がある。夕張に至っては速力低下と拡張性皆無であったという。



「平賀不譲」と渾名されるほど性格的に意固地な部分を持ち、頑なに自己の設計に固執して他を排除する傾向があった。後になって欠陥という形で現場に数々の運用上の不具合をもたらした。妙高型の散布界の広さがそれであり、古鷹型搭載単装砲の人力揚弾による発射速度の低下がそれである。

これらの改善は海外視察(という名目の左遷)中に起用された藤本喜久雄の手によってどうにか実行されている。


また友鶴事件第四艦隊事件は藤本造船技官の設計による船体軽量化による船体強度低下と兵装過多から来るトップヘビーによる復元力の低下が原因とされるが、それに至る兵装過多傾向を作り出したの原因は主に彼である


つまり或る意味諸悪の根源公式が病気である。

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