平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年3月8日 - 1943年2月17日)は日本の造船技術者。工学者。海軍軍人。戦前、戦中日本のにおける造船工学の権威にして東大総長在任中に死去した唯一の人物。
人物
戦前における造船技術の権威で、既存の技術を元にエポックメーカー的な艦艇を設計する達人。逆に言えば、彼の手によって設計された艦は力業で切り抜ける設計が多いのが特徴である。
艦橋支柱を40cm砲射撃時の爆風負荷を軽減するために従来型の三本脚から7本に増やした八八艦隊計画艦の長門型のメインマスト、3300t級の船体で5500t並に匹敵する重武装を施す為に船体に駆逐艦設計手法を応用した夕張、軽巡洋艦に20cm級の艦砲を詰め込むかに重点を置いただけの古鷹型などどれも力業で切り抜けている。
必然的に無理矢理の犠牲は何某かにしわ寄せを強いることになり、古鷹型以降の帝国海軍艦艇の多くは居住性の悪化と航続力、速力の低下という形で弊害を持つ傾向がある。夕張に至っては(元から実験艦の側面もあったとはいえ)速力は駆逐艦以下になってしまい、拡張性皆無であったという。
しかしこれらの設計は当時の外国海軍に大きな影響を与えている。特に夕張は当時のジェーン海軍年鑑に特記事項を付けて紹介され、大きな衝撃を与えた。夕張の設計も問題は大きかったがこの後の帝国海軍の艦艇設計の礎となっている。
「平賀不譲」と渾名されるほど性格的に意固地な部分を持ち、頑なに自己の設計に固執して他を排除する傾向があった。後になって欠陥という形で現場に数々の運用上の不具合をもたらした。妙高型の散布界の広さがそれであり、古鷹型搭載単装砲の人力揚弾による発射速度の低下がそれである。
これらの改善は海外視察(という名目の左遷)中に起用された藤本喜久雄氏の手によってどうにか実行されている。
平賀氏の跡を継いだ藤本喜久雄氏も吹雪型駆逐艦や最上型巡洋艦等様々な名艦艇を設計している。
しかし、平賀氏と代わって逆に用兵側の意見を取り入れすぎ、当時日本では発展途上である溶接技術などを積極的に用いた結果、船体軽量化による船体強度低下と兵装過多から来るトップヘビーによる復元力の低下を招いてしまった。そして友鶴事件・第四艦隊事件という事件を引き起こす事となってしまっている。
保守的な平賀氏と革新的な藤本氏という真っ向から対照的なこの二人は、
互いが名造船工学家であり、その設計スタイルも一長一短ある事からミリタリーファンや研究家から比較される事も多い。