大東亜共栄圏
だいとうあきょうえいけん
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に大日本帝国が唱えた東アジア・東南アジアの地域共同体の将来像。
昭和13年に近衛文麿が東アジアの将来像として掲げた「東亜新秩序」を東南アジアにまで拡大したものと言える。「八紘一宇」をスローガンとし、欧米によって植民地支配されたアジア諸国を解放・独立させ、日本主導の新秩序を築くことを目指した。
昭和15年7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われてから流行語化。昭和18年に東京で開催された日本とアジア各国による「大東亜会議」で「大東亜共同宣言」が採択された。
植民地の独立を名目にしながら大東亜共栄圏の構成国には十分な自主権は与えられず、各国は日本軍による傀儡国家でしかなかった。しかし新たな統治者となった日本によって、旧統治者の白人や、商人や役人として現地民族を収奪していた中国系住民(華僑)の特権が剥奪されたことは、現地民族の地位の向上へとつながった。一方で華僑に対する待遇は過酷を極め、スパイの疑いで日本軍による虐殺も起きている(このため東南アジアの華人には反日意識が強い者も多い)。
戦争終結で日本は敗戦し、大東亜共栄圏は実現されることはなかった。オランダ、イギリス、フランスなどの旧宗主国が植民地支配の再開を図ったが、日本占領下で創設された民族軍等が独立勢力として旧宗主国と戦い、各国は自立を遂げた。
なお、今日、東アジア・東南アジア地域の共同体構想は、中曽根康弘、鳩山由紀夫ら一部の政治家により「東アジア共同体」として唱えられている。中華人民共和国が大国へと成長した今、中国を入れた地域共同体は中国中心にしかならないとして、「中国抜きの大東亜共栄圏」を構想する者もいる。