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太宰治

だざいおさむ

近代日本の文豪。ピクシブ上では彼をモチーフとした創作作品の登場人物で使われている事が多い。
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概要

太宰治(本名:津島修治、1909-1948)とは、青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身の小説家

昭和を代表する小説家であり、文豪とも。プロレタリア文学の影響を受け、人間の弱さと美しさを描き出した精緻な作品、過敏な自意識の露悪的な表出、自殺未遂を繰り返した破滅的な人生などから、現在でも人気に衰えの見られない作家である。坂口安吾・織田作之助らと共に無頼派・新戯作派と呼ばれる。


生家は地元青森の名家(いわゆる地主)であり、祖父・父ともに政治家(うち父の源右衛門は国会議員)である。兄は夭折した者も含め五人いるが、うち長命であった二人も共に政治家であり、生誕地の金木町(現:五所川原市)長を務めた。

このうち長兄・文治は青森県知事・国会議員にまで進出、次兄の孫・恭一、そして自身の娘婿と孫も衆議院議員となった。また、娘婿の雄二は厚生大臣となり一族で初の大臣選出、その子であり、太宰の実孫である淳は4期にわたって現役の衆議院議員として活動している。

なお、作家としての太宰の血筋は次女の津島佑子(本名・里子)、及び庶子にあたる太田治子、佑子の娘である石原燃に受け継がれた。


敬愛する芥川龍之介の名を冠した「芥川賞」に執着を見せ、選考委員でつてのあった佐藤春夫に手紙を送るまでしているが、終に受賞する事はなかった。なお、この際に「君なら受賞出来るよ」とおだてたのが、『走れメロス』の元になったと言われる「熱海事件」の片割れの檀一雄である。

 

自殺未遂と薬物中毒、死について

学生時代にカルチモン(ブロムワレリル尿素)で自殺を図って以降、幾度となく自殺未遂を繰り返しており、また睡眠薬などの薬物中毒に陥っていた。さらに、女好きでもあり、交際関係のもつれにも苦しめられた。


初めの自殺未遂は弘前高等学校在学中の1929年12月のことであり、カルチモンを大量服用した。

本人はこれについて「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と、(プロレタリア文学に傾倒していた)自身の思想と実際の身分の差に対する葛藤があったというようなことを綴っている。一方で太宰は当時左翼に傾倒し熱心に活動していたことから、逮捕を免れるための狂言の可能性も指摘されている。


1930年5月、東京帝国大学(現在の東京大学)を一時除籍になってまもなく、カフェ「ホリウッド」の女給であった田辺シメ子(田辺あつみ)と共にカルチモンを服用した上で心中を図る(※本人は「入水自殺」と表現しているが、当時の報道では「睡眠薬を服用して海岸で倒れているところを発見された」とある)。しかし、日頃からカルチモンを常用し耐性のついていた太宰は眠ったまま船から落ちることはなく、相手だけが海に転落して溺死してしまったという顛末であり、自殺幇助の罪に問われるが、政治家の兄文治らの働きかけにより起訴猶予処分となる。

この心中未遂をモチーフに、後年になって短編小説『道化の華』が発表された。


1935年3月、大学生活も5年目となり、仕送りを打ち切られることを危惧して都新聞社(東京新聞)の入社試験を受けるが不合格となる。これに落胆し首吊り自殺を図るも失敗。

同年4月に腹膜炎で入院するが、この時鎮痛剤のパビナール(オキシコドン)を注射されたことをきっかけに依存症となってしまう。また、大学も結果としては学費未納で除籍となっている。


パビナール依存と借金で私生活は荒れに荒れ、さらに内縁の妻小山初代の不貞が発覚したこともあり、1937年3月に初代とカルチモン自殺を図る。失敗し二人とも生存したが、同年6月には離縁している。


1938年1月、親交の深い井伏鱒二の紹介で地質学者石原初太郎の娘・美知子と見合いをし、結婚。結婚後は精神的にも大いに安定し、戦中戦後にかけて多数の短編を発表する。


1947年2月、美容師をしていた山崎富江と知り合い、懇意になる。また、同年11月、『斜陽』のモデルとなった日記を執筆した太田静子との間に子供(太田治子)が生まれる。太宰は自分の名前から「治」の名前を与えて認知した。


1948年6月13日、愛人となっていた山崎富栄と玉川上水に入水自殺。

この間の経緯には、富栄による無理心中説、狂言自殺の失敗説等、様々な説が唱えられている。死体が発見された19日は、晩年の作品から「桜桃忌」と呼ばれる。奇しくも、遺体が発見されたのは太宰39回目の誕生日であった。

また、自殺との関連は不明だが、自殺の直前まで、所得税の滞納に関して税務署ともめていたことが明らかになっている(自殺するまでに、ちゃんと納税したかは不明)。


1998年になって、遺族により公開された遺書では、妻の美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と綴られている。

ただし、度々の自殺未遂の経歴から仮に遺書があったとしても「確実に死ぬ気」ではなかったのではないか、という意見もあり、実家の津島家に出入りしていた呉服屋の中畑慶吉や、当時の警察署長などが(死の直前の)自殺の意思に懐疑的な見解を述べている。


代表作


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