島津義弘とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
家紋は「丸に十の字」。
プロフィール
生没 | 天文4年7月23日-元和5年7月21日 | ||
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生没(西暦) | 1535年8月21日-1619年8月30日 | ||
父母 | 島津貴久:父 | 雪窓夫人:母 | |
兄弟 | 島津義久:長男 | 島津歳久:三男 | 島津家久:四男 |
妻 | 北郷忠孝の娘:正室 | 亀徳:継室 | 実窓夫人:継室 |
主な子 | 島津久保 | 島津忠恒 | 島津忠清 |
生涯
島津貴久の次男として生まれる。
兄は稀代の知将として知られる島津義久。
はじめ忠平と称したが、後に将軍・足利義昭から偏諱を賜って義珍(よしたか)と改め、さらに義弘と改めた。その後出家し、惟新(斎)と号した。
父と共に大隅国西部の祁答院良重・入来院重嗣などの連合軍と岩剣城にて戦い、初陣を飾る。
その後大胆な采配と勇猛さにより活躍し、島津が九州の大勢力となるが、豊臣秀吉の九州征伐を受けて降伏。
木崎原の戦いの『伝説』
北原氏の家督問題に内政干渉してその領地である「真幸院」を押奪した伊東氏は、伊東義祐の嫡子・義益の死に伴い真幸院の西側・飯野方面(現・宮崎県えびの市)より撤収したものの、喪が明けて以降は再び奪い取らんとの動きを見せていた。
飯野方面防衛を任されていた義弘だったが、この頃の島津家は本隊を肝付氏との戦いに集中させており、伊東を駆逐したくとも義弘側は兵数が300名程度と少なく、中々進展しなかった。そこで諸々の策を講じたのである。
まずは義弘夫人附きの女中を、罪を為して折檻されそうになったのを逃げてきた体で伊東側に亡命させ、加久藤城の一番脆い搦め手は「鍵掛口」だと偽りを告げさせた。
次いで、盲僧で琵琶法師でもある菊一を伊東領に潜入させ、伊東側の陣容や出征日などを調べさせた。
元亀3年5月4日、伊東勢3000は飯野へ侵攻すると、義弘居城の飯野城への抑えの兵を置きつつ、約半数を割いた別動隊が義弘妻子の住まう加久藤城へと侵攻する。が、堅牢な鍵掛口を攻めたために城を落とせず撤退を余儀なくされると、折からの蒸し暑さから気が緩んだか池島川にて水浴びを始めた。そこを義弘本隊が急襲、加久藤城攻めの大将だった伊東祐信を討ち取った。
生き残った伊東の別動隊は飯野城の抑えの隊と合流する。そこへ再び義弘本隊が急襲。しかし多勢に無勢とばかり撤退すると伊東勢はこれを勇んで追ったが、まんまと釣り野伏(この頃はまだ完成形ではない)にかかり算を乱して逃走。しかし義弘は伊東の真幸院へのこれ以上の干渉を断つため完膚なきまでに叩く心算であり、その退路を限定させていた。
まず飯野の老人子供らに旗幟を持たせて北側の山に登らせ、島津の援軍があるように見せかけ伊東側への相良氏からの援軍を牽制させつつ北への退路を塞ぎ、白鳥神社の者にも旗幟を持たせて南への退路をも封じたのである。更に、西からは新納忠元の援軍が駆け付け、伊東勢は東へ逃げるより無く、殺到したそこを集中して攻められたことで総大将の伊東祐安ほか主だった武将が悉く討ち取られるに至った。
義弘は追撃の手を緩めず、真幸院の東側である三ツ山(現・宮崎県小林市)へと通じる井出原山を上りきってもなお伊東勢を追討し続けたが、後に粥持田と呼ばれる地へ達した正に折、敵将の柚木崎正家が義弘へ向け槍を突き出したのである。あわやというその瞬間、義弘の乗っていた牝馬が前足の両膝を折り曲げたため義弘はこれを回避できた。のみならず、逆に柚木崎へ槍を突き入れこれを討ち取れたのである。
義弘を救ったこの牝馬は「膝突栗毛」と呼ばれ、以後は義弘の主要な合戦にのみ参加し、人間の年齢にして83歳まで生きた。当時の馬には珍しく墓が建てられ、今も現存している。
この合戦で伊東氏は有能な武将を数多く失い、且つ義祐の奢侈および義祐寵臣の増長への抑え役がいなくなったことで内部からも瓦解。数年後には日向国を捨てて大友家を頼るよりなくなったのであった。
朝鮮出兵の『伝説』
前期(文禄の役)では、大遅参をやらかしてしまうが、後半(慶長の役)では島津家必殺の戦法 「釣り野伏」を駆使して7000の兵で20万の明・朝鮮の大軍を撃退し、海戦で大被害を出しながらも朝鮮水軍李舜臣を討ち死にさせて友軍の撤退を助けるなど大きな戦果を上げ、「鬼島津」という異名を中国大陸にまで轟かせた。
関ヶ原の『伝説』
天下分け目の関ヶ原では、甥の島津豊久と共に西軍に参加する事になるのだが、元々義弘と豊久は会津征伐に乗り出した徳川家康の召集を受ける形で本土に来たに過ぎず、そこで失脚していた石田三成の挙兵にかち合うことになった。伏見城でいざこざがあった結果、義弘の軍は一転して西軍側として家康と戦うことになった。
島津家内部の意見不統一や前年に起こった内戦「庄内の乱」の影響もあって1000人(一説には3000)ほどしか兵を連れてこられなかったが、石田三成・小西行長・宇喜多秀家らとともに西軍の中核を務める事になる。
しかし、僅かな軍しか率いていないのを理由に、西軍からは軽視されてしまう事になる(本当に軽視されていたかは不明)。前哨戦と言える墨俣の戦いでは、三成の軍が勝手に撤退した事で、前線で戦っていた自分達は見殺しに近い仕打ちを受ける(ただし、三成はこの件を自分達に謝罪し、後で単騎で迎えに来たとされている。また、その日に行われた首実験では家臣である押川強兵衛の手柄を褒め、黄金一枚を与えた)。また、その日の更に関ヶ原の本戦直前では、確実に家康に勝つ為の戦法として、秀忠率いる軍と合流する前に夜襲して本隊を倒す提案をした。宇喜多秀家も賛成していたが、実質上の大将である三成から「夜襲は義に反する者の卑劣な行いだ」と非難されてしまう(ただし、この際の夜襲案は落穂集などの二次資料にしか見られないため、現在では後世の創作の可能性が指摘されている)。
これに憤慨した義弘と豊久は、関ヶ原本戦では一切動こうとせず二度に渡る三成の参戦要請も無視(積極的に動かなかったのは二番備と呼ばれる予備兵力として参戦していたからであり、それは西軍も合意の上だったという指摘もある)。元から家康側につくはずだった秀秋が裏切った事で、次々と寝返りが発生し、西軍は敗色濃厚となってしまった。
そして危機に陥った義弘ら島津軍は発想を逆転させ、敵軍の中央を突破して離脱するという起死回生の作戦を発動。(「島津の退き口」)
まず旗印などの自軍の目印となるものを捨て、手柄に目がくらんだ敵中を、時に戦い、時にすり抜けて伊勢方面へ逃れていった。
最後、離脱していくのが島津軍であることに気付いた井伊直政や本多忠勝らが追撃してきたが、これを鉄砲で妨害し、なんとか撤退に成功した。
この撤退戦で当初1000いた兵(撤退開始時には300程度)は義弘を含めて80余りまで損耗し(実際は義弘らとはぐれた200余人が近江国と美濃国にまたがる伊吹山に上がり、そこから分散して逃げているため、追討された者や捕縛され処刑された者もいるが単独で帰国したものもおり生還者はもう少し多い)、また豊久もまた自身をかばう形で戦死してしまう事になった。
歴史界隈ではこの話ばかりが有名だが、本当に厳しかったのはここからで、義弘たちは徳川軍の追撃と落ち武者狩りに怯えつつ、ロクに食事もできないまま徒歩で大阪まで移動し、そこから船で九州まで帰還した。
この際も優秀な家臣と、予てから親交のあった大坂の商人たちのコネに助けられており、さらに摂津国住吉で人質となっていた妻と娘も彼女付きの侍女の機転で救出に成功。立花宗茂らと共に何とか大坂から船で脱出することに成功した。
その船での帰国も、黒田方に加担した能島海賊と森江沖で海戦になるなど艱難辛苦を味わったが、辛くも日向国の細島へ上陸がなった。
帰還した義弘は大胆にも、関ヶ原で戦った井伊直政を通じて家康と和睦した。
晩年は御家存続と若手の育成に徹し、85歳という当時としては長寿でこの世を去った。
人物
武勇に優れた、実直かつ大胆な人物。その性質を祖父・忠良からも激賞されている。
若い頃はかなりやんちゃで、真っ先に突撃して敵将と一騎打ちを演じたり、全身に五ヶ所の矢傷を負いながら戦ったりと、結構な無茶をやらかしている。
猛将としての面がクローズアップされがちだが教養も深く、茶の湯や学問に親しみ、戦陣医術にも明るかったなど、決して腕っぷしだけの人物ではなかった。
同時に大変な部下思いで、戦場では酒や食事を一兵卒に至るまで共にして鼓舞し、家臣に子が出来るとわざわざ屋敷に招いてその子を抱いて祝ってやり、その子が元服すると「お前なら父に並ぶ(父をも超える)武将になれよう」と祝辞を贈るなど、家臣たちと分け隔てなく膝を交えた付き合いを欠かさなかった。一説にはこれが功を奏して、凍死者の続出した朝鮮出兵で、軍全体で囲炉裏を共有していた島津軍だけは一人の凍死者も出していない。
愛妻家の家庭人でもあり、朝鮮出兵の折には半島から妻に向けて三通の手紙を送って妻と家族を心配していた。「島津の退き口」でも、人質に取られた妻子を置いていけばすんなり帰れたところを「どの面下げて国に帰ることができようか」と奮起し、結果としてしっかり奪還して帰国している。
その妻とは伝説がある。ある日、小野(現・鹿児島市小野)へ鷹狩りに来た義弘が川で大根を洗っていた女性(後の実窓院)に大根を所望したところ、女性は器が無かったため自らの被っていた菅笠を脱ぎ、頭に触れていない側をへこませて、そこに大根を載せて差し出した。その気遣いと機転の良さを気に入り義弘は妻にしたという。
実窓院は小野の領主で義弘実父である貴久の直臣・園田実明の娘で側室身分だったが、広瀬氏に養女に出すことで正室身分に引き上げられた。また、実窓院には頬に三日月形の傷があり「月冴姫(つきさよひめ)」と呼ばれたという。当時は体に損傷がある女性を嫁に貰うことを拒む風潮があったが、義弘がそんなことを意に介さない性格であったことをうかがわせる。
晩年は衰えが目に見えてくるようになったが、ある時心配した部下が「殿、戦の準備にごさいます」といって屋敷の外の家臣に鬨の声を上げさせると、まるでさっきまでの衰えが嘘のようにモリモリと食事を平らげたという。
主な合戦と勝敗
1554年 | 20歳 | 岩剣城の戦い | 〇 |
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1557年 | 23歳 | 蒲生松坂城攻略戦 | 〇 |
" | " | 纏頭の戦い | 〇 |
1562年 | 28歳 | 横川城攻略戦 | 〇 |
1566年 | 32歳 | 三ツ山城攻略戦 | ✕ |
1567年 | 33歳 | 馬越城攻略戦 | 〇 |
1568年 | 34歳 | 堂埼の戦い | ✕ |
" | " | 桶平城の戦い | △ |
1572年 | 38歳 | 木崎原の戦い | 〇 |
1576年 | 42歳 | 高原城攻略戦 | 〇 |
1578年 | 44歳 | 耳川の戦い | 〇 |
1581年 | 47歳 | 水俣城攻略戦 | 〇 |
1585年 | 51歳 | 堅志田城攻略戦 | 〇 |
1586年 | 52歳 | 岡城攻略戦 | △ |
1587年 | 53歳 | 根白坂の戦い | ✕ |
1593年 | 59歳 | 第二次晋州城攻略戦 | 〇 |
1597年 | 63歳 | 南原城攻略戦 | 〇 |
1598年 | 64歳 | 泗川の戦い | 〇 |
" | " | 露梁海戦 | △ |
1600年 | 66歳 | 関ヶ原の戦い | ✕ |
関連タグ
創作物での島津義弘
歴戦の老将として描かれることが多い。
- 『戦国無双』シリーズ こちらを参照。
- 『戦国BASARA』シリーズ 詳しくはこちらを参照。
- 『采配のゆくえ』 詳しくはこちらを参照。
- 『実況パワフルプロ野球』シリーズ 2011決定版に登場。圧倒的なスタミナと160km/hの重い豪速球を持つ先発投手であり、長打力も半端なく高い。計略「鬼島津」は味方全員の弾道とパワーを上げ、さらに特殊能力「パワーヒッター」と「プルヒッター」を追加するというとんでもないもの。全打席で清本クラスの長距離砲を相手取るような状態で正直ヒヤヒヤもの。
- 『御城プロジェクト』 敵の大将兜として登場。巨大なハンマーを手に範囲攻撃を行ってくる。兜という種族の特性らしく完全なストロングスタイルで押し切る戦いが好き。釣り野伏とかはやってこない。タワーディフェンスなので、むしろこっちが釣り野伏もどきをやって仕留める事ができたりする