天文3年4月22日(1534年6月3日)~慶長15年8月20日(1610年10月6日)
室町時代(戦国時代)・安土桃山時代・江戸時代初期に生きた戦国武将で各分野に秀でた文化人。
概要
室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えていたが、、永禄8年(1565年)の永禄の変で三好三人衆と松永久秀が謀反を起こして義輝を暗殺。藤孝ら義輝旧臣は出家していて幽閉されていた義輝の弟・覚慶を次期将軍にせんと救出。覚慶は近江の武将・和田惟政の館において還俗して名をはじめ足利義秋とし、永禄11年(1568年)、越前において名を義昭に改めた。
義昭に仕えた藤孝は近江の六角義賢を味方として上洛を目指したが、三好三人衆の攻撃を受けたばかりでなく、六角氏内部に義昭に敵対する勢力があることが判明、義昭は親類のつてをたよって若狭の武田氏、次いで越前の朝倉義景に身を寄せて将軍擁立のために上洛するよう奔走するも、ついに義景は動くことなく成果を結ぶことはなかった。そこへ朝倉から織田信長に仕官した親友でもある明智光秀のつてで義昭と信長を引き合わせて、織田家とも誼を通じるようになった。
永禄12年(1569年)、義昭は信長とともに上洛して将軍に就任したが、翌元亀元年(1570年)には早くも政治を主導する信長と実権を握ろうとする義昭の対立が表面化。藤孝は両者の関係修復に努めたが、元亀4年(1573年)4月、義昭から謹慎を言い渡されたため、信長に恭順姿勢を見せた。
同年(天正に改元)7月、信長に降伏した義昭が京から追放されて室町幕府が滅亡すると、その後は織田家家臣として、各地で転戦して軍功を上げた。
天正6年(1578年)、信長の命により、嫡男・忠興と光秀の三女・珠子(後の細川ガラシャ)を娶せることとなった。光秀とは古くからの親友であり、盟友・縁戚の関係となった。
しかし、天正10年(1582年)6月、明智光秀率いる1万3000の軍勢が本能寺に滞在する主君・織田信長を討つ本能寺の変が発生。信長を倒した光秀から新政権構築のため、協力を求められたが藤孝はこれを拒否。剃髪して家督を忠興に譲り、名を「幽斎玄旨」と号して隠居し、嫡男・忠興も正室・珠子を丹波に幽閉して謀反にくみしない姿勢を見せた。
その後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の側近くにに文化人・茶人として仕えた。
秀吉死後の慶長5年(1600年)、親交のあった徳川家康に接近し、嫡男・忠興と共に東軍に属し、居城の田辺城に籠城。関ヶ原の戦いでも参戦して戦果をあげ、忠興は戦後、豊後国らに39万9000石の大領を与えられた。
その後は京都で晩年を過ごし、慶長15年(1610年)8月、死去した。
人物
剣術、弓、和歌、茶道、蹴鞠、囲碁、料理、水泳、有職故実など戦国では随一と言える文武両道の人物、その教養は公家の中にさえ藤孝に及ぶ人はいなかったという。特に和歌に関しては関ヶ原の際に自城に籠城してあわや城を枕に討死という時に、朝廷から「古今和歌集の解釈を伝える人間が居なくなっては困る。攻撃側は直ちに攻撃を中止して、幽斎は城を明け渡しなさい」という勅使が来訪してその命を永らえるという、まさに「芸は身を救う」を立証するような出来事が起こっている(ただし、この件について息子の忠興には「なんで潔く討死しなかったんだ!」と怒られた。気性の激しい忠興だから仕方ないけど)。
また、彼が名将であり優れた文化人でもあった三好長慶を尊敬していたと言う話は有名で、「私は連歌における作法の大切さを三好修理太夫(長慶)殿から学んだ」と述べ、長慶の優れたるを歌人・能書家の烏丸光広に語っている。
さらに武芸に秀でた力持ちでもあり、京都の路上で暴れ牛の角を掴んで投げ飛ばしたという逸話もある。
彼の子孫には第79代内閣総理大臣・肥後・細川家18代目当主細川護熙がおり、そのためか漫画作品に登場する藤孝は護熙に似た描かれ方が多い。
なお、護熙は政治家引退後は陶芸家を営んでおり、その祖父で細川家16代目当主・侯爵・細川護立も政財界きっての芸術品コレクターとして知られるなど、藤孝の文化人としての気質は受け継がれているようである。
関連タグ
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