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細川藤孝の編集履歴

2011-08-29 01:05:42 バージョン

細川藤孝

ほそかわふじたか

教養に秀でた戦国武将。

天文3年4月22日(1534年6月3日)~慶長15年8月20日(1610年10月6日)

室町時代戦国時代)・安土桃山時代江戸時代初期に生きた戦国武将で各分野に秀でた文化人。


概要

室町幕府第13代将軍足利義輝に仕えていたが、、永禄8年(1565年)の永禄の変で三好長慶の三好三人衆と松永久秀が謀反を起こして義輝を暗殺。藤孝は出家していて幽閉されていた覚慶を次期将軍にせんと救出。覚慶は還俗して名を足利義昭とした。

義昭に仕えた藤孝は六角義賢朝倉義景などに将軍擁立を頼んで奔走するも成果を結ばなかった。そこへ朝倉から織田信長に仕官した親友でもある明智光秀のつてで義昭と信長を引き合わせて、織田家家臣となった。

義昭は信長とともに上洛して将軍になれたが、両者の対立が表面化。これに対して藤孝は信長に恭順姿勢を見せた。その後も織田家家臣として、各地で転戦して軍功を上げた。息子の忠興と光秀の娘・珠子(後の細川ガラシャ)が夫婦となり、光秀とは親友であり、盟友・縁戚の関係となった。

しかし、天正10年(1582年)に本能寺の変が発生。信長を倒した光秀は新政権構築のため、藤孝に協力を求めたが拒否。剃髪して家督を忠興に譲り、名を「幽斎玄旨」と号して隠居した。その後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に仕えた。

秀吉死後の慶長5年(1600年)、親交のあった徳川家康に接近して息子と共に東軍に属し、居城の田辺城に籠城。関ヶ原の戦いでも参戦して戦果をあげた。その後は京都で晩年を過ごした。


人物

剣術和歌茶道蹴鞠囲碁料理水泳、有職故実など戦国では随一と言える文武両道の人物。

力持ちでもあり、京都の路上で暴れ牛の角を掴んで投げ飛ばしたという逸話もある。

彼の子孫は第79代内閣総理大臣となった細川護熙で、そのためか漫画作品に登場する藤孝は護熙に似た描かれ方が多い。


関連タグ

日本史 戦国時代 戦国武将 殿といっしょ 信長の忍び へうげもの

細川忠興 足利義輝 松永久秀 三好長慶 足利義昭 朝倉義景 明智光秀 細川ガラシャ 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 千利休

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