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細川藤孝の編集履歴

2013-05-12 11:09:24 バージョン

細川藤孝

ほそかわふじたか

戦国~江戸時代の武将・大名。剣術、和歌などを中心に戦国随一の教養を持ったことでも知られる。鎌倉時代から続く細川家の庶流で、肥後細川家の礎。足利将軍家に仕えた後、織田信長や豊臣秀吉へ仕えた。

天文3年4月22日(1534年6月3日)~慶長15年8月20日(1610年10月6日)

室町時代戦国時代)・安土桃山時代江戸時代初期に生きた戦国武将で各分野に秀でた文化人。


概要

室町幕府第13代将軍足利義輝に仕えていたが、、永禄8年(1565年)の永禄の変で三好長慶の三好三人衆と松永久秀が謀反を起こして義輝を暗殺。藤孝は出家していて幽閉されていた覚慶を次期将軍にせんと救出。覚慶は還俗して名を足利義昭とした。

義昭に仕えた藤孝は六角義賢朝倉義景などに将軍擁立を頼んで奔走するも成果を結ばなかった。そこへ朝倉から織田信長に仕官した親友でもある明智光秀のつてで義昭と信長を引き合わせて、織田家家臣となった。

義昭は信長とともに上洛して将軍になれたが、両者の対立が表面化。これに対して藤孝は信長に恭順姿勢を見せた。その後も織田家家臣として、各地で転戦して軍功を上げた。息子の忠興と光秀の娘・珠子(後の細川ガラシャ)が夫婦となり、光秀とは親友であり、盟友・縁戚の関係となった。

しかし、天正10年(1582年)に本能寺の変が発生。信長を倒した光秀は新政権構築のため、藤孝に協力を求めたが拒否。剃髪して家督を忠興に譲り、名を「幽斎玄旨」と号して隠居した。その後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に仕えた。

秀吉死後の慶長5年(1600年)、親交のあった徳川家康に接近して息子と共に東軍に属し、居城の田辺城に籠城。関ヶ原の戦いでも参戦して戦果をあげた。

その後は京都で晩年を過ごした。


人物

剣術和歌茶道蹴鞠囲碁料理水泳、有職故実など戦国では随一と言える文武両道の人物。特に和歌に関しては関ヶ原の際に自城に籠城してあわや城を枕に討死という時に、朝廷から「古今和歌集の解釈を伝える人間が居なくなっては困る。攻撃側は直ちに攻撃を中止して、幽斎は城を明け渡しなさい」という勅使が来訪してその命を永らえるという、まさに「芸は身を救う」を立証するような出来事が起こっている(ただし、この件について息子の忠興には「なんで潔く討死しなかったんだ!」と怒られた。忠興だから仕方ないけど)。

力持ちでもあり、京都の路上で暴れ牛の角を掴んで投げ飛ばしたという逸話もある。

彼の子孫は第79代内閣総理大臣・肥後細川家18代目当主細川護熙で、そのためか漫画作品に登場する藤孝は護熙に似た描かれ方が多い。

なお、護熙は政治家引退後は陶芸家を営んでおり、その祖父で細川家16代目当主・侯爵細川護立も政財界きっての芸術品コレクターとして知られた。


関連タグ

日本史 戦国時代 戦国武将 殿といっしょ 信長の忍び へうげもの

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