佐々木小次郎
ささきこじろう
概要
宮本武蔵のライバルとして有名な剣豪。巌流佐々木小次郎。
身の丈ほどもある長刀「備前長船長光(通称、物干し竿)」を愛刀としており、得意技は斬り下ろした刃を瞬時に返して斬り上げる「燕返し」。
巌流島で武蔵と決闘することになるが、決闘の場で2時間も待たされたり、鞘を捨てたことを己の敗北の予兆と指摘されるなどして頭に血が上り、冷静さを失ったところを武蔵に梶で額を割られたとされている。
フィクション作品において彼をモチーフにしたキャラクターが登場する場合、大抵は宮本武蔵がモチーフのキャラクターとセットで(ライバル、相手役として)登場する。
ワイルドなイメージの武蔵に対して涼しい顔立ちの美剣士として描かれることが多い。
一説では、巌流島での決戦当時の小次郎は既に老齢だったとも言われている(対する武蔵は20代)。
史料における小次郎
巌流島の決戦について書かれた史料は、宮本武蔵という偶像を絶対化し、それによって利権を得られる宮本武蔵関係者(二天一流兵法師範など)によって書かれたものが多い。
そうしたものを含め小次郎らしき人物について書かれた史料と記述内容を年代順に並べると以下のようになる。
① 1645年、宮本武蔵没する。
② 1654年、武蔵の養子伊織による『小倉手向山武蔵顕彰碑(小倉碑文)』によると、武蔵は三尺の刀を使う「岩流」という剣術の達人と、長門と豊前の間にある「舟嶋」で一対一で戦い勝利したという。
この時点ではまだ相手の姓名も出自も決戦時の双方の年齢も不明である。
③ 1672年、かつて武蔵が仕えていた細川藩の藩士が書いた『沼田家記』 によると、武蔵が戦った相手は「小次郎」という名の豊前の兵法師範で、彼が一人で島に来たのに対し、武蔵はたくさんの仲間を連れてやってきた。小次郎は武蔵との立ち合いに敗れた後に、一度は息を引き返したが、隠れ潜んでいた武蔵の弟子たちが現れ、集団で小次郎を打ち殺した(彼弟子共参合 後にて打殺申候)。それを聞いて小次郎の弟子たちが大挙して武蔵を殺そうとしたが、武蔵は権力者に庇護を求めて城の中に逃げた。その後、武蔵は鉄砲を持つ兵士らに道中を警護されつつ、豊後の無二斎の元へと逃げ延びたという。
④ 1704年、吉田重昌という人物が書いた伝聞集『江海風帆草』によれば、筑前出身の武蔵という18歳の男が、父親・宮本無二之助の遺恨を晴らすため、先に島に渡り、後から来た長門の兵法師範「上田宗入」と戦ったという。この史料には「佐々木」どころか「小次郎」の名も無い。
⑤ 1714年、天道流の達人・日夏繁高が記した最古の武芸列伝『本朝武芸小伝』巻六によると、「巌流」という者が舟島で武蔵と戦う約束をした。武蔵はたくさんの仲間を連れてきているので、たった一人で島へ渡ろうとする巌流を渡し守が必死で止めたが、巌流は約束を破るわけにはいかないと言って渡航し、舟島で死んだという。
⑥ 1716年、熊沢猪太郎による逸話集 『武将感状記』によると、武蔵は下関で、三尺余りの長刀を使う「岸流」という剣術者と戦った。武蔵は櫂を削って二本の木刀を作り、岸流の頭を微塵に砕いたという。
⑦ 1727年、二天一流師範の丹治峯均による『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、巌流「津田小次郎」という仕込み杖の使い手が宮本無二に戦いを挑んだ。無二はこの戦いを辞退し、代わって19歳の宮本弁之助が下関で戦い、舟の櫂を削った木刀で勝利したという。
⑧ 1755年、二天一流師範の豊田正脩による『武公伝』によると、冨田勢源の弟子で18歳で巌流を創始し、細川忠興に登用された豊前の兵法師範「巌流小次郎」という人物がいた。(生前の冨田勢源から直接教えを受けた人物だとすれば、年齢50~70歳と考えられる)。
武蔵は29歳の時、父親無二の弟子を通じて小次郎との戦いを申し出、細川忠興の許しを得て、人払いをした向島(舟嶋)で戦う事になった。しかしいつまで経っても武蔵が現れない。ようやく現れた武蔵にしびれを切らした小次郎が鞘を捨てたところ、武蔵は「小次郎敗れたり!」と言い放ち、小次郎を木刀で打ち殺したという。
現在はこの史料『武公伝』は、決闘の内容をはじめ年月や対戦相手の氏名・経歴を含めて信憑性がほとんど無い創作物であるとされる。にも関わらず一般的な「巌流島の決戦」のイメージは、おおむねこの話をベースにして構築されている。
⑨ 1776年、二天一流師範の豊田景英による『二天記』は、先に挙げた『武公伝』の流れを汲むもので、それほど違いはない。ただし小次郎に「佐々木」という姓が追加され、越前出身の18歳に設定された。吉川英次や「バガボンド」の小次郎設定はここに由来している。
⑩ 1782年、二天一流師範の丹羽信英による『兵法先師伝記』(史料としての評価は極めて低い)では、18歳の武蔵が「津田小次郎」を倒している。津田は無二と幾度も戦い決着しなかった豊前の兵法者という設定で、年齢は不明だが無二と同じ程度、つまり老人と考えられる。
⑪ 1783年、古川古松軒による『西遊雑記』では、武蔵の対戦相手は「岩龍」という名になっている。岩龍が事前の約束通り1人で島に渡ろうとしたところ、浦の者たちが「武蔵は門人を大勢連れている。一人では敵わないので今日は島には渡らないようにしてください」と止めに入った。しかし岩龍は、「武士は言葉を違えはしない。固く約束をしたことであるから、今日島へ渡らないのは武士の恥である。もし貴方がたの言うように、武蔵が大勢で私を討ったりすれば、かえって武蔵の恥になるだろう」と言って島に渡った。その結果試合中に武蔵の門弟が四人襲い掛かってきて、岩龍は殺されてしまったのだという。
いずれの史料においてもガンリュウ剣士は名前・出自・年齢ともにマチマチで、絶対と考えられる信憑性の高い史料は存在しない。
なお、1935年から1939年まで朝日新聞に連載された吉川英治の小説『宮本武蔵』では、出世欲旺盛な若い美剣士として登場し、山口県の錦帯橋で「燕返し」という必殺技を編み出している。ただし小次郎を美形とする資料は無く、当時錦帯橋は存在せず、「燕返し」の元ネタは「虎切」と呼ばれる剣法の型であり、すべて吉川の創作である。
またフィクションでは「身の丈(5尺~6尺)ほどもある長刀」を持っている事が多いが、史料の小次郎が持っている刀はせいぜい3尺(90㎝)である。
佐々木小次郎をモチーフとしたキャラクター
YAIBA
CV:小杉十郎太
ムサシのライバル。かの有名な巌流島の戦いでムサシに敗れ死んだが、クモ男の薬で現代に蘇った。
伸びる妖刀「物干し竿」の使い手。この刀は小次郎以外の指示は基本的に受け付けない。
鬼丸側(?)として当初は刃と敵対していたが、いつの間にか(雷神剣目当てで)仲間に加わっていた。
武蔵伝(初代のみ)
CV:安達忍
物語中盤からフィーレ姫が新たに召喚した英雄。
しかしムサシ同様子供の姿になってしまっている。
姫を助ける事よりもムサシと決着することを優先し、ムサシの前に立ちはだかる事となる。
ちなみにおでこの傷はムサシ曰く「自分から勝手に転んだ際に傷がついた」もの。
MUSASHI -GUN道-
CV:櫻井孝宏
GUN道の達人であり、タクアン和尚にも勝利している。
実は男装の麗人であり、タクアン和尚に勝利したのもその美貌をも利用した事によるものである。
ムサシ曰く「男だと言いながら女であることを武器に城盗りをする卑怯者」であり、ムサシは名前を聞いただけで怒りだすほど嫌っている。
しかし当の本人は以前からムサシに求婚しており、一緒にひつまぶしを食べないかと誘ってもいる。
『どう見ても女には見えないし、声も男性声優があてているじゃないか』というツッコミはしないように。
Fate/staynight
CV:三木眞一郎
アサシンのサーヴァントとして登場。登場直後自ら正体を佐々木小次郎であると名乗る。
詳しくはアサシン(Fate/staynight)の項目参照(ネタバレ有り)。