源田実
げんだみのる
人物像
帝国海軍大佐 1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日 満84歳没 戦後は航空自衛官、政治家となった。
海軍時代や戦後にやらかしたことで、一部には怨まれていた。
1、現場からの要望である零戦の防弾・防火の強化を否定。理由は「大和魂でいくべきである」。
2、源田の発案による部隊、作戦によっておこなわれた台湾沖航空戦の失敗。ほとんど戦果は無く、損害が大きいだけで終わった。しかも戦果を過大に報告。
3、特攻への関与。軍令部ごと特攻を推進したことは明らかで、源田には特攻専用機「桜花」への深い関与が疑われている。特攻は大西瀧治郎の発案によるものとされているが、大西がフィリピンで編成した神風隊の小隊名は「敷島隊」、「大和隊」、「山桜隊」であったが、源田は「戦果発表の際、戦意高揚のため、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」、「朝日隊」等もあわせて発表すべき」との機密電文を起案している。大西がフィリピンに到着したのは10月19日、電文の起案は10月13日である。特攻を捨て駒と思っていたのは間違いないようで、特攻を出撃させることに心痛する参謀に「囲碁にも捨て石、将棋にも捨て駒がある」と言い放った。この言葉を傍らで聞いて愕然としたのが坂井三郎である。
4、政治力を使って虎の子のベテランや優秀な操縦士を引き抜き、自身が司令を務める松山三四三海軍航空隊に集めた。近年の研究では戦果はかなり誇大だったことがわかっている。
5、日本本土無差別爆撃の指揮を取ったアメリカ空軍のカーチス・ルメイへの日本政府からの勲章授与に尽力。航空自衛隊の発展に寄与したと言うのが理由だった。昭和天皇は難色を示したが、これを強く薦めたのが源田で、自身が叙勲されたことに対する返礼だったとされる。
分厚い批判書が複数出ている軍人は珍しく、この点では陸軍の辻政信に等しい。