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一条兼定の編集履歴

2014-12-07 18:59:39 バージョン

一条兼定

いちじょうかねさだ

一条兼定 とは 土佐西部に勢力を置いていた戦国大名である。(1543年~1585年。メイン画像の左上の人物)

概要

1543年、土佐4代目国司・一条房基の子して誕生。


しかし6年後の1549年、突如父の房基が錯乱した上に死亡してしまった為、7歳で後を継ぐ。


家督継承当初は祖父の一条房冬の弟の房通が後見したが、1556年に房通が死去すると元服し兼定と名乗る。


1558年には伊予宇都宮家当主・宇都宮豊綱の娘と婚約するが、6年後に大友義鎮の次女と婚約して大友家と同盟する。


3年後には河野通宣と毛利元就の連合軍を宇都宮豊綱と連合して戦うが、敗北。


その2年後には妹婿の安芸国虎と組んで長宗我部元親に挑むが、間もなくして国虎は元親に敗れて敗死。


この事がきっかけとなったのか次第に酒に溺れる毎日を送り、更には諫言した土居宗珊を始末してしまう。


1573年、長宗我部元親に付いた嫡男・内政(ただまさ)によって豊後に追放された。


2年後の1575年には旧領回復を図り、大友軍と連合して四万十川で長宗我部軍と戦うが、長宗我部軍は7500だったのに対し、自身は何と4000の差で3500と少なく大敗。


結局、旧領回復はならずここに戦国大名の一条家は滅亡した。


旧領回復が回復出来なかった兼定は失意のうちに1585年に43歳で死去した。


ちなみに四万十川の同年にはキリスト教へ入信している。


信長の野望における一条兼定

目を覆わんばかりの低い能力値、層が薄いにも程がある家臣団(土居宗珊を除く)、そして立地は強力な大名である長宗我部の隣国という絶望ぶりから、かえってカルト的な人気を誇る。

再評価の傾向が出てきた今川氏真に変わり、ネタキャラの枠を確固たるものにしつつある。


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