神風(2代目)
かみかぜ
長門型戦艦の建造で知られる「八八艦隊計画」の一環として建造された大型艦艇。
全長102.57m、全幅9.16m、喫水2.92m、排水量1400t、12cm単装砲・53cm三連装魚雷発射管・三年式機砲(6.5mm機銃、後期型は7.7mm機銃)・爆雷18個、を搭載した。
第二次世界大戦期には、「第一駆逐隊」「第五駆逐隊」「第二九駆逐隊」「第二八駆逐隊」を編成し、既に旧型ながら睦月型や峯風型とともに奮戦した。
神風、朝風、春風、松風、旗風、追風、疾風、朝凪、夕凪の合計九隻からなる。
最終的に神風以外の全てが沈没し、神風だけが終戦を迎えた。
神風(二代目)
二代目神風型の一番艦であり、第二次世界大戦期には「第一駆逐隊」に編入されていた。
駆逐艦の中でも、熾烈な戦いを二度も経験しながら終戦まで生き残った武勇の艦艇である。
戦時最終期には12cm単装砲×3門、53cm連装魚雷発射管×2門、25mm連装機銃×4期(同型単装機銃も2挺装備)、爆雷18個+爆雷投射常軌×2基と、対空・対潜に傾倒した装備になっている。
また下記の対潜水艦エピソードにあるように、40mm連装機銃を搭載した記録もある。
竣工早々に大湊警備府に配属され、北洋警備に従事し、開戦時も千島列島周辺海域の紹介に当たっていた。
ミッドウェー作戦のアリューシャン方面攻略に参加し、第二次アッツ島攻略で護衛船団して従事、それ以降も本土北方海域の船団護衛を主任務としていた。
太平洋戦争末期には北号作戦に支援艦として参加し、台湾で四航戦と合流。任務達成後は、そのままシンガポールに向かう。
1945年5月14日、ペナン沖海戦で妙高型重巡洋艦「羽黒」とともにイギリス艦隊と一戦を交えるも、橋本中将の指示で一時戦線を離脱。その後海上を漂流する羽黒の船員の救助に当たった。
戦闘中は修復の不完全な羽黒をかばって煙幕を展開し、輸送任務中で魚雷発射管を外した状態身も関わらず粘り強く奮戦してみせた。
なおこの海戦は「日本海軍最後の海戦」とも言われる歴史的事件でもある。
翌月6月4日には、バンガ海峡での戦闘で沈没した妙高型重巡洋艦「足柄」の船員救助に当たっている。
この海峡戦をもって第五戦隊は解隊となった。
そして神風最大の戦いとして知られるのが、米潜水艦ポークビルとの死闘である。
7月中旬にシンガポールから輸送船団の船団護衛に従事し、潜水艦の出没地点として知られたマレー半島沖で接触。
両者で至近距離での魚雷と爆雷による殴り合いを演じた末、ポークビルが浮上した瞬間を狙って神風が40mm連装機銃を発射し、ポークビルは33m下の海底に沈座した。
神風は撃沈を確信してその場を去ったが、ポークビルは残存していた。しかし、壮絶な戦いからジャイロコンパスを始めとした各種機器が使いものにならなくなり、撤退を余儀なくされたという。
旧型艦ながら、魚雷を紙一重で躱す卓越した操舵と勝機を見逃さない辣腕から、神風と艦長を務めた春日均少佐は米軍から絶賛されている。
戦後、春日氏とポークビルのスキャンランド艦長は幾度か手紙を交換しており、スキャンランドは春日を「最も熟練した駆逐艦艦長」と褒めちぎっている。対する春日も「沈めなくて良かった。ホッとした気持ちです」と述懐している。
その後はベトナム方面への輸送任務に従事し、終戦をシンガポールで無傷で迎えた。
翌年6月7日に、静岡県の御前崎で海防艦「国後」が擱座したことを受けて救助に出るも、神風も座礁してしまい、そのまま放棄されることが決定した。
翌1947年10月31日、解体完了。
数々の船団護衛と二度の死闘を経験した歴戦の勇者は、ここに生涯を閉じた。