平安時代の歌人・公卿。藤原北家。官位は従三位・左京大夫。通称荒三位。中古三十六歌仙の一人。
経歴
正暦3年(992年)生まれ。幼名は松君。
祖父の道隆に溺愛されて育つが、長徳元年(995年)道隆は死去、さらに、翌年内大臣という高位にあった父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こし大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家である中関白家が没落する中で成長する。
長保六年(1004)、従五位下に叙せられ、寛弘二年(1005)、侍従に任ぜられる。
以後、右兵衛佐・左近少将と進み、寛弘六年(1009)、従四位下に至る。
同八年には春宮権亮となって敦成親王(のちの後一条天皇)に仕え、のち左権中将となる。
長和五年(1016)正月、後一条天皇践祚の際には蔵人頭に補せられ、翌月従三位に叙せられた。
ところが、同年九月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った三条院の怒りに触れて寛仁元年(1017)勅勘を被った。
万寿三年(1026)、中将を罷免され、右京権大夫に遷される。
寛徳二年(1045)、左京大夫。永承六年(1051)、備中権守。
晩年は西八条邸に閑居し、歌会を催すなどして、藤原範永・同経衡ら和歌六人党や、藤原家経・同兼房ら風流士との雅交を楽しんだ。
天喜2年7月20日(1054年8月25日)、出家の直後、薨ず。六十三歳。
代表作
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな
(左京大夫道雅(63番) 『後拾遺集』恋・750)