概要
肉や魚などの摂取が少なかった当時、日本人の食生活は穀物類が主体だった。特に肉体労働者は激務のため1日に1升(1.8リットル)もの米を消費したといい、米価の高騰は家計を圧迫し、人々の生活を困窮させていた。富山県中新川郡東水橋では、1918年(大正7年)「7月上旬」から、「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まっている[1]。7月22日の昼には、富山市中長江町ほかで富豪浅田家の施米にもれた細民200名(「杖にすがったむさ苦しい婆さん達もあれば子供の手を曳いた女房連も」)が市役所に押し掛けた(7月23日『北陸政報』)。記事には、「昨今の米高が如何に細民をして生活難に陥らしめているが窺われる」と記している。同日夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港には、北海道への米の輸送を行うため「伊吹丸」が寄航していたという。この時は巡回中の警官の説諭によって解散させられたが、住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。荷積みを行っていたのは十二銀行(北陸銀行の前身)であった。その倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」により記念碑が建立されている。7月24日および25日の『北陸タイムズ』では、それぞれ「二十日未明同海岸に於いて女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしをいち早く魚津警察署に於いて探知し」、「二十日未明海岸に集合せしを警察署がいち早く探知し解散せしめ」と魚津の動きが20日未明(恐らく十九日夜間)から起きていたと報じている。また、8月9日の『高岡新報』は、「魚津町にては、米積み込みの為客月一八日汽船伊吹丸寄港にに際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」と、魚津でも7月18日以来一揆が起きていることを記している。
その頃、東水橋、富山市、魚津町以外にも、東岩瀬町(28日)、滑川町、泊町(31日)等富山県内での救助要請や、米の廉売を要望する人数はさらに増加し、各地で動きが起きていた[4]。翌月8月3日には当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。
8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。
以前から、魚津市大町の十二銀行(北陸銀行の前身)倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」により記念柱が立てられていたが、東水橋町(現・富山市水橋)の郷土資料館前にも、米騒動記念の碑が建立された。
別名・表記ゆれ
1918米騒動(平成の米騒動と区別するため)
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