役立たずの航空部隊
西沙諸島占拠
1974年1月15日、アメリカが撤退したことでベトナム戦争にも終息がみえていた頃、定期巡回の南ベトナムコルベットにより西沙諸島、永楽群島の甘泉島に中国漁船2隻が停泊し、島に五星紅旗を掲揚しているのが発見された。南ベトナム艦は退去を命じたが漁船は無視して居座り、翌々日、双方ともに増援部隊を派遣して事態は緊張した。中国側はこの間にほか3島に上陸・占拠し、銃砲の応酬こそないものの、まさに一触即発となった。
1月19日には、南ベトナムが占拠された島の1つに上陸・奪回を敢行、これに中国も対応して艦を差し向けるが、南ベトナムはこれに向けて発砲。のちに「西沙海戦」とよばれる戦いが始まった。
西沙諸島のゆくえ
この軍事衝突で南ベトナムは哨戒艇1隻を失い、他にも参加した艦艇はもれなく大小の損害を被った。これにより艦隊は撤退し、以後は島を占拠する中国の動きを止めることができなかった。
また、中国側にも反省点はあった。
当時の中国空軍・海軍航空隊の装備では、西沙諸島でさえ行動範囲ギリギリであり、多くの場合、艦艇の支援要請に応じて駆けつける等というのは不可能だった。新たな装備に、より長距離に向いた戦闘爆撃機が求められるのは当然のことだった。
当時の中国軍機種
MiG-19を国産化したJ-6戦闘機のほか、MiG-21F-13を国産化したJ-7にIl-28の国産化H-5と、いずれも短距離の航空優勢確保・対地支援に重きを置くソビエト式空軍ならではの内容となっている。
「行動範囲ギリギリ」
もちろん、行動範囲を伸ばす有効な手段としては空中給油が考えられるが、当時のソビエトでは戦略爆撃機専用に用意しているのみ。もちろん中国の手に渡ることも無かった。
1988、ファーンボロにて
1988年、イギリスのファーンボロ航空ショーで実機の模型が展示され、ここに中国の新型戦闘爆撃機の開発が明らかになった。JH-7はそれまで主力だったQ-5、またはH-5の後継であり、一番の特徴はそれまでにない航続力とされた。