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羊祜の編集履歴

2009-11-25 15:09:33 バージョン

羊祜

羊コ(祜)あざな叔子、泰山郡南城の人。(生没年221~278)

身の丈7尺3寸(178cmくらい)、ひげと眉が美しく、議論が得意。

父は上党太守・羊ドウ(衜)、母は後漢の学者蔡邕の娘(あざなを貞姫とする場合もある)。羊衜の前妻は孔融の娘。

同母姉の羊徽瑜は晋の景帝・司馬師の妻であり、司馬昭の妻で司馬炎・司馬攸などの生母である王元姫の母は羊家の出身であるため、司馬昭・司馬炎2代にわたって寵愛された。

妻は夏侯覇の娘。

陸抗との友情

病がちな陸抗のため、羊祜は薬を贈った。陸抗は毒見もせず服用し、翌日すっかり快復した。陸抗は羊祜が酒好きと聞くと、薬の返礼にみずからかもした酒を贈った。羊祜は毒が入っていることを懸念する部下をよそに、ひとりで全部飲んでしまい(ちなみに演義では1斗の酒を贈ったとされる。当時の1斗は1.8リットル)、なんともなかった。のちに、陸抗が羊祜に薬を求めると、羊祜は自分のために調合した薬を、お先にどうぞと陸抗にゆずった。演義では、このために孫晧は陸抗が羊祜と通じていると疑い、兵権をとりあげた。


荊州での羊祜

司馬炎には、呉を滅ぼしたいという思いがあったので、賈充の推薦により269年、羊祜を都督荊州諸軍事に任じ、襄陽に駐屯させて呉の陸抗と対峙させた。

羊祜と陸抗は徳義を競いあい、無道な行いをすることがなかったので、羊祜が死んだとき荊州の人々は市場をたたんで服喪し、呉の人々も羊祜に心服していみなを呼ばずに羊公とよぶほどであった。

・羊祜は軽い皮の衣服を着て帯はゆるく、鎧は身につけず、護衛は十数人しかおらず、狩りや釣りをしてたびたび政務をさぼっていた。あるとき、夜中に外出しようとすると、軍師の徐胤が門の前に割符をもってたちはだかり、「将軍は万里を督するお方。あなたの安否は国家の安否です。なぜ軽率な行いをなさるのですか。そんなに夜遊びしたければ、わたしを殺していきなさい」と言った。羊祜は身なりをただして徐胤にわび、以後仕事を放り出して遊びに行くことはまれになった。

・羊祜は卑怯な策を献じる者がいると、酒を飲んで酔っ払い聞こえないふりをした。発言者に酒を飲ませて酔っ払いのいうことだから、と無視したという場合も。

・兵士が呉の子供をさらってくると、羊祜は子供たちを親のところへ帰した。するとその子の父親が一族を連れて全員晋に降伏してきた。

・羊祜は、戦死した呉の将を手厚く葬り、彼らが節義のために死んだことをたたえ、子弟が棺を引き取りにくると礼をつくして対応した。

・呉の鄧香が夏口をかすめとると、報奨金をかけて鄧香をいけどり、なだめて解放した。鄧香は羊祜の徳に感じ入って、兵士を引き連れて降伏した。

・呉との国境を行軍するとき、呉の食料を刈り取ることがあると、その量を計算して代金を絹で支払った。

・呉との国境で狩りや釣りをおこなうときは、晋の領内にとどまり、獲物が国境を越えても追いかけていくものは誰一人いなかった。また呉のほうで先に傷をつけた獲物があれば、丁寧に封をして送り届けた。演義では、兵士が獲物につられて国境を越えないのを見て、陸抗は羊祜の統率力の高さを知って攻めても容易に勝てないと判断し、獲物を送り返す礼儀正しさに感心して交誼をむすんだとされる。

・余った食料が農地に放置されていても相手国がそれを奪うことはなく、家畜が国境をこえた場合、相手国に知らせた上で捕獲することができた。


西陵の戦い

272年9月、呉の西陵督・歩闡が城をあげて降伏したが、陸抗に囲まれてしまった。羊祜は兵5万を率いて江陵へ出、巴東監軍・徐胤は水軍で益州方面から建平へ向かい、荊州刺史の楊肇は西陵に一軍で攻め込んで歩闡の救出を試みた。陸抗は三軍を率い、楊肇をさんざんに打ち破って晋軍を追い払い、歩闡の一族は赤子までみな殺された。

羊祜は敗戦の責任のため降格され、楊肇は免官され庶民となった。


討呉を主張

陸抗が死ぬと、羊祜は益州刺史・王濬を監益州諸軍事・龍驤将軍に任命して水軍を編成させ、自分は兵を訓練して装備をととのわせ、呉征伐の上奏をした。司馬炎は羊祜の意見に納得したが、賈充をはじめ重臣の多くが反対したため通らなかった。羊祜は嘆いていった。「天下にはおもうままにならないことが、10のうち7・8はつねづねあるものだ。優柔不断で天の与える機をとらないでいたら、あとになって後悔しないことがあろうか!」

羊祜は一族のものや娘婿を七光りで抜擢することがなく、誰かを推薦することがあっても、個人的に恩を売って賄賂の疑いをかけられることを嫌い、使用済みの推薦状をいつも焼き捨てており、羊祜のおかげで昇進できたものがあってもそれとわからなかった。また、よこしまな者を憎んで荀勗や馮タン(紞)とは折り合いが悪かった。また上記の王衍・王戎の件もあって、羊祜の味方をするものがだれもいなかったのである。

羊祜は病になり、司馬炎に面会を求めた。ちょうど、姉の羊徽瑜の喪のさなかであった。張華が「いま帝には禅譲の喜びはあるが、天下統一の大業はなしとげられていない。もしいま孫晧が死に、呉が聡明な君主を立てれば、のちの憂いとなるにちがいない」と主張し、羊祜は「わたしの志をつぐのは君だ」と言った。司馬炎は、羊祜が病床から指揮をとって呉を攻めさせようとしていたが、羊祜は「わたしが行く必要はありません。しかるべき人材にお任せください」といい、固辞した。

いよいよ病が重くなったため、羊祜は杜預を仮節(死刑執行権)・平東将軍・征南軍師代行とした。278年11月、羊祜がなくなると、杜預はあとをついで鎮南大将軍・都督荊州諸軍事となった。


堕涙の人

羊祜の著作である「老子伝」や詩は、ひろく世間で読まれた。襄陽の人々は、羊祜が山水を好んで、峴山で宴を開き、一日中飽きずに詩を読んでは「天下万物が創世されたときから、この山はここにあった。古来からたくさんの優れた人物がここをおとずれ、わたしたちのように景色を眺めていただろう。しかしその名は埋もれてしまっている。なんと悲しいことだろうか。もし死後も霊魂がとどまることがあるならば、きっとこの山に登るに違いない」と言っていたところに碑を立て、季節ごとに供え物をして祭祀をとりおこなった。杜預はこの碑を堕涙碑と名づけた。


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