概要
東漢氏の生まれで、姓は直。東漢直駒とも。
東漢氏の嫡流である坂上氏の祖坂上志努の子の坂上駒子と同一とされる。
『日本書紀』崇峻天皇五年十一月条によると、東漢駒は嶋大臣蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を弑した(「祟峻天皇弑逆事件」)。これは在位中の天皇が臣下により殺害された唯一の事例とされる。
さらに駒は馬子の娘であり、祟峻天皇の嬪であった河上娘を祟峻宮から略奪した。このことで暗殺を命じたはずの事件の首謀者である馬子に捕らえられ、駒は殺害されることになる。
馬子によって捕らえられた駒は、髪を枝に掛けて木に吊るされ、馬子は自ら弓を引き罪を数えあげながら駒を矢で射った。
三度目の矢が射られたときに、駒が「私は大臣が権力者であると知っていたが、大王が尊いとは知らなかった。それを今さら弁解はしない」と答えた。
これに怒った馬子は剣を抜き、駒の腹を裂いて首を斬ったといわれている。
駒が処刑されたのは、馬子による口封じではないかと考えられている。
天武天皇の時代になると天武天皇は東漢氏を重用するにあたり、東漢氏が推古天皇の御代から近江朝までに「七つの不可」(大罪)を犯した事を挙げて罪を恩している。この七つの不可のうち、一つは祟峻天皇弑逆事件と考えられる。