ダグラス商用機3型
原型となったのはDC-3で、元をただせばDC-2旅客機の胴体を拡大した「アメリカ夜行横断便」であった。この大型化で乗客定員は1.5倍になり、しかも運航費用はほとんど変わらなかったため、1930年代の航空業界にとっては革新的ともいえる「飛ばせば飛ばすだけ利益が出せる」はじめての航空機となった。
この航空機は当時の旅客機としては600機と、かなりの数が生産されている。
だが、この航空機の本領はこの後にあった。
「空の貨物列車」
このように優秀な旅客機であるから、これが軍部の目に留まらぬ訳がない。
1939年、ポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発し、欧州情勢が風雲急を告げるなか、アメリカ陸軍航空隊(USAAF)は民間よりDC-3を借用して充てていた。
当然ながら評判はよく、これを貨物用に適応させた本格的な輸送機が求められた。
これがC-47「スカイトレイン」で、胴体後部左側面の乗降ドアを大型の貨物ドアに拡大し、貨物室底面も搭載力に見合った程度まで強化された。
C-47は1940年9月に147機が発注され、以降大戦が終結し、生産ラインが閉じられるまでに10000機以上が生産されるという、まさにアメリカの工業力を象徴する大記録を打ち立てている。
おもな派生型
C-47
上記のような改修を加えた輸送機型。
C-47Aでは電気系統を改造し、強化している。
C-47B
インド~中国間にあるヒマラヤ越え輸送経路のために開発されたエンジン強化型。
スーパーチャージャーを導入し、高高度での気圧低下に対応しようとしたが、肝心のスーパーチャージャーが不調だった。続く生産型や、既生産機ものちにスーパーチャージャーを取り外し、C-47Dとなった。
ちなみに、このヒマラヤ越え輸送経路は「援蒋ルート」の一つであり、中でもこのビルマ経由線は最後まで遮断されなかった唯一のもので、インパール作戦にはこの遮断も含まれていた。結局のところ、一度は陸路を遮断されたものの、輸送は空路によりしぶとく継続され、また新道路も整備されて終戦まで持ちこたえた。
C-47Bの任務はこのビルマ空輸路線のためにあったのだが、高山地帯は強烈な気流が吹き荒れる危険な場所であり、もちろん事故も多発している。与圧室も過給機も持たず、高高度に向かないC-47はのちに任務から外され、代わってより強力なエンジンを備えたC-46がビルマ空輸路線を引き継いだ。
C-47D
結果的にC-47Aに近くなり、戦後もC-47Aともども各種派生型を生み出す基になった。
EC-47(電子偵察機)、RC-47(電子・写真偵察機)、SC-47(救難機。のちにHC-47へ改称)、VC-47(要人輸送機)、AC-47(特殊攻撃機)など。
C-53「スカイトルーパー」
兵員輸送専門とした機で、椅子を固定式として貨物用設備を排除。
R4D
海軍・海兵隊仕様のC-47。基本的に所属が違うだけ。
「ダコタ」Mk.1~4
イギリス空軍仕様のC-47。こちらも基本的に所属が違うだけ。
Li-2「キャブ」
ソビエトでライセンス生産されたDC-3で、胴体・主翼内翼部に爆弾架を追加して爆撃機として改造された機もある。独自に様々な改設計が施され、寒冷地への対応を高めたほか、機体上部に機銃座を設置し、ソ連爆撃機の伝統として機首に固定機銃(7.62mm機銃ShKAS)も追加されている。約2000機を生産。
零式輸送機
これもDC-3をライセンス生産したもので、日本海軍に採用された。
エンジンを国産のものに変更したほか、航法士・通信士を追加して計4人乗りに。約400機生産。