概要
もともとはダグラスDC-3の対抗馬兼後継機として開発されたCW-20という双発旅客機であった。
1940年に初飛行したが、垂直尾翼に双尾翼を採用したのはいいが低速時の安定性が良くなかった、ということで垂直尾翼を単独にしたものの、その改良にやや手間取った結果、旅客機としてはほぼ実用化されなかった。
だが、本来であればDC-3の約1.5倍にあたる36人乗りを想定したキャビンの広さはアメリカ陸軍航空部門(1947年に現在のアメリカ空軍となった)の目に留まり、軍用輸送機として採用された。
C-47と共にアメリカ陸軍の輸送機として活躍、いわゆる「ハンプ越え」ではC-47を押しのけ主戦力として大活躍したほどである。
DC-3(およびC-47)の10000機以上にはおよばないものの、第二次世界大戦終結・連合軍勝利までに3181機作られている。
アメリカ陸軍の他、アメリカ海兵隊にもR5Cという名称で採用されたほか、ソビエト連邦にも供与された機体も存在したという。また、CW20の試作機はイギリスの民間航空会社であるBOACに引き取られた。
第二次世界大戦終結後も朝鮮戦争やベトナム戦争初期にも参戦しているほか、ベルリン封鎖の際の空輸作戦では、ライバルC-47や、さらに大きなC-54と共に活躍している。
さらに中南米諸国や韓国、台湾、ラオス(ラオス王国)の各空軍や航空自衛隊でも採用されたほか、民間に払い下げられたものもある。
なお、積載量は双発機としては多い(6.8トン、ちなみにC-47は2.6トン)うえ、エンジンも強力(2000馬力、C-47のそれは1200馬力)、さらに飛ばせる距離もC-47の2倍(ちなみに約5000㎞)とまさにいいことずくめ、と思いきや、電気系統が意外とポンコツであり、それに悩まされ続けた。
航空自衛隊のC-46
1954年に正式発足した際に36機供与されたのが事の起こり。その後部品取りの目的で台湾空軍から12機、それも相場からすればかなりのバーゲンプライスで購入したのだが、思った以上に状態が良かったためメンテナンスしたうえでちゃっかり使用した。
輸送機としてはもちろんの事、飛行場の設備の確認を行うフライトチェッカー、さらには電子戦の訓練のために妨害電波発生装置を積んだものまで使用したが、川崎C-1にあとを託す形で1978年2月に退役した。
航空自衛隊では、本来のニックネームである「コマンドー」ではなく、独自のニックネーム「天馬」を使用していたが、なにせ第二次世界大戦時の機体であったため老朽化は隠しきれず、運用後期は現場の隊員から「とんま」と罵倒されることも少なくなかった。
ともあれ、航空自衛隊の輸送機としての長年の功績は輝かしいものがあり、現在でも埼玉県所沢市内、航空自衛隊入間基地、米子鬼太郎空港の軍用エリア(航空自衛隊の輸送機部隊が置かれている)などに保存されている。