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A-5の編集履歴

2017-08-27 01:09:48 バージョン

A-5

えーご

1950年代にノースアメリカンで開発された超音速核攻撃機。マッハ2で敵防空網を突破すべく技術の最先端を結集し、のちの世代にも通じる先進的かつ野心的な設計が試みられている。だが代償として汎用性は低く、そのうえ艦上機としては常識はずれの大型機であったため、戦略核攻撃任務がICBMやSLBMに交替された後は速やかに退役させられた。愛称は「ビジランティ(自警団員)」。

戦略爆撃思想と核戦略論

「核兵器」の発見

そもそも、核兵器とは何だろう。

19世紀末にキュリー夫妻によりラジウムが発見され、世界が鉱石に秘められた「莫大な、しかし見えないエネルギー」の存在に気づかされた。さらに1930年代には核分裂が発見され、アメリカやドイツ、日本でもこの莫大なエネルギー放出をを兵器に転用できないかどうか検討されるようになったことに始める。


というのも、当時のドイツではナチ党が政権を取り、戦争の影が急速に近づきつつあったのだ。画期的な新兵器を貪欲に求めたナチスドイツが、この新兵器を求めたのは当然であり、ヨーロッパ各地に分散していた科学者たちを取り込んでいった。その一方ではナチスの手の及ばないアメリカへも渡り、そんな科学者たちがアメリカで進める(少なくとも日本人にとっては)悪魔のごとき計画、それが『マンハッタン計画』であった。


議員や将軍の誰一人知らぬ間に莫大な予算が組まれ、多くの研究所を動員した。しかしドイツ降伏には間に合わず、完成した核兵器は結局日本に向けられた。ご存じの通り、人口密集地に投入された核兵器は20万人以上を死に至らしめ、その後も様々な意味で不信を残すことになった。いちおう、アメリカ人は「これで結果的に失われたであろう、双方百万にもなる人命を救うことができたのだ。日本人にとってもマシだったのではないか」とは主張しているようだが、年寄り女子供にまで焼夷弾やら機銃掃射やらで殺しておいて今さらナニを抜かす、散々殺しておいて今さら人類愛とか寝言言ってんのか、である。(ただし、重慶爆撃もあったのでそう他人のことも言えない。一応ハシリではある)


戦略爆撃理論と核兵器

では、なぜわざわざ人口密集地を選んだのか。それが「戦略爆撃理論」であった。

本来は、戦線後方を目標にすることによって国民一人ひとりに「目標」であるとの自覚を与え、それによって恐怖を煽って戦争忌避を目指す理論であった。

平時ならばコレで良かったのだろうが、実際に戦争が始まると『とにかく人口密集地を攻撃して人間をたくさん殺す』という部分以外は速やかに忘れ去られた。


核兵器:威力がスゴい

戦略爆撃理論:とりあえずいっぱい殺す


この2つの組み合わせで戦争の「殺戮数スコアアタック」化がますます進行してしまった。

そして1949年、ソビエトも核開発に成功したことにより、核兵器は撃つだけでなく、撃たれる可能性も出てきた。もはや核兵器を使われたら誰も彼も「デッドエンド」。では自分は死なず、相手だけ皆殺しにするにはどうすればいいか。こうして核兵器の使いどころを探る「核戦略」は生まれていった。


50年代の核兵器

とはいえ当初の核兵器は、現代のそれとは大分と様相が違っていた。

まず、核兵器はとかく複雑・大型で、運搬は大型の爆撃機に限定された。ミサイルも無いではなかったが、初期のミサイルは小さく、核兵器など無理な相談だった。


ゆえに大型爆撃機開発は核兵器に直結して進められ、航空機開発技術に優れたアメリカではB-52のような機を開発した。こうなると都合が悪いのはソビエトだった。大型機開発ではアメリカに水をあけられており、開発競争が本格化すれば追いつけなくなる事も考えられた。


そこでソビエトはナチスドイツの科学者を多く取り込んだことを生かし、ロケット技術によって代用することを思いついた。米ソとも、競争が本格化するのは後のことだったが、とにかく50年代は「核攻撃=爆撃機から核爆弾を落とす」という図式であった。そんな訳で、当時のアメリカの核戦略『大量報復戦略』とは、当時まだ圧倒的だった核戦力をタテに、どんな軍事衝突が起ころうと、常に最大限の核攻撃をもって対抗する(用意を見せる)ことで、そもそもソビエト側が軍事行動を起こす気をなくそうとさせたものだった。

A-5開発時の核戦争の想定は、まさしく敵都市に対する絨毯爆撃の延長に過ぎなかったのである。


もっと速く・もっと高く・もっと強くin海軍

そんな訳でA-5(当時はA3J)に求められた性能は、まだ重かった核爆弾の搭載能力とマッハ2以上の巡行能力だった。艦載機の核搭載はA3Dが可能としていたが、なにせF-100のような超音速戦闘機が出回り始めたご時世である。最大980km/hという速度性能では振り切って突破することは不可能だった。


1954年、ノースアメリカンでは超音速攻撃機の研究を行っていたが、それが海軍の目に留まり、A-3の後を継ぐ艦載核攻撃機として採用されることになった。採用は1956年だが、その時点では既に開発に取り掛かっていたこともあり、1958年には初飛行を遂げている。


自(宅)警備団員

その後1960年には実戦仕様機が発注され、1961年に訓練部隊が編成、翌年には実戦部隊への配備が始まった。が、発注した矢先にU-2撃墜事件が起こり、成層圏も安全でないことが明らかになってしまった。


つまり、せっかく完成したA-5が全く実戦にそぐわない事が解ってしまった訳で、一応それからも配備そのものは予定どおり進められたものの、配備はわずかな部隊に限られた。その証拠に、1962年からは偵察機に再設計・改造したRA-5Cが発注されるようになっており、艦載核攻撃機としては暗い未来しか予想できなくなってしまうのだった。


核戦略の変遷

それというのも、ソビエト側も核兵器を配備するようになった事で「どんな軍事衝突にも、最大限の核攻撃で対処する」という『大量報復戦略』が通用しなくなってしまった事が大きい。確かに、核兵器での応酬が確実ならば、正面切っての大戦争はしにくくなる。


しかし、当時アジアやアフリカで頻発していたような地域紛争のような場合はどうか。

当然、これら小国も米ソのような大国の影響を受けていないわけではない。むしろ米ソとも自陣営の勢力拡大に取り組んだせいで、頻発している位だった。しかし、米ソとも戦略核兵器を持つに至り、米ソとも大量報復戦略をとってしまった訳だから、おちおち小国の紛争に介入することもできない。


そこで次なる戦略は『柔軟反応戦略』となった。

この戦略では、地域紛争などの規模に応じ、その激烈度に見合った戦力しか投入しないというものである。ケネディ政権のマクナマラ長官が体系化し、そうすると今度は攻撃の「精度(正確さ)」が重要視されるようになった。同じ戦力しか投入できないのなら、より少ない手数で確実に戦闘力を奪った方が勝てるじゃないか。


これを可能にしたのは、兵器がますます精度を上げていたことにあった。

ICBMはCEP(半数必中界)を上げ、例えばCGM-16E「アトラス」(1961年配備)が3700mだったのに対し、LGM-30A/B「ミニットマンI」(1962年配備)では150mにまで高まっている。こうなれば強固に防備されたミサイル基地でも不安があり、逃げも隠れもできない地上基地への配備は>戦略ミサイル原潜>潜水艦へと切り替わっていくことになる。


エージェント夜を往く(偵察)

A-5は1964年には核攻撃の任を解かれるようなり、

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