朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
来歴
越前の戦国大名朝倉孝景の嫡男として生まれる(異説アリ、後述)。
1548年に父の孝景が死去し、越前朝倉家11代当主として家督を相続する。
しかし幼少であったため、義景の祖父の弟にあたる朝倉宗滴が実権を握っていた。
この後1555年に朝倉宗滴が死去し、自ら政務を取るようになった。
1565年時の13代将軍足利義輝が三好義継、松永久秀らに暗殺されると、
のちの15代将軍で義輝の弟であった足利義昭は朝倉家を頼って越前に逃れてくる。
しかし当時加賀国の一向一揆衆に悩まされていた義景は義昭の上洛要請を拒否し、
結果義昭は台頭著しい織田信長を頼って美濃へと落ち延びる。
1567年には、加賀の一向一揆衆と結んだ家臣の堀江景忠を討伐、翌年の1568年には、
織田信長の上洛援護という名目のもと、若狭守護の武田元明を攻撃し支配下にいれる。
織田信長を頼って上洛し将軍職に任じられた足利義昭は、次第に信長に対して
不信感を露わにするようになっていった。一方信長は将軍命令のもと再三上洛してこない
朝倉義景に業を煮やし、ついに朝倉討伐を開始する。
朝倉方は織田信長・徳川家康の連合軍相手に防戦一方で、本拠を除きほとんどが
信長の支配下に入ったが、浅井長政が急遽味方についたおかげで窮地を脱する。
(この時長政は長年同盟を結んでいた朝倉家を重視したと勘違いされやすいのだが、
前述の朝倉宗滴に対して浅井家は散々煮え湯を飲まされており、考えづらい。)
その後は浅井長政とタッグを組んで信長に対抗。姉川の戦い、
宇佐山城の戦いや比叡山の籠城など対信長の最前線で軍を動かし続ける。
しかしもともと織田信長より圧倒的に少ない国力で財政破綻寸前まで
無理をしつづけた挙句、信長の調略で重臣の前波吉継らの寝返りにあい、
対信長包囲網から身を引き独断で国内に軍を返した。
他人の領地(徳川領)のネコババしかしていなかった信玄と、ほとんど何もしなかった義昭に
非難されるのはもはや悲哀を誘うレベルである。)
しかし結果的にこの行動によって織田信長には大分余裕ができた。1573年4月には、
信長包囲網の一角を担っていた武田信玄が死去。その結果を受けて
武田軍が甲斐に引き返すという事態になり、東側の圧力が消えた織田信長は
朝倉征伐のための軍を起こし、嵐の中味方を置き去りにしてまで朝倉軍を攻撃する。
既に這う這うの体であったにもかかわらず迅速ともいえる信長の攻撃を受けて朝倉家は敗北。
朝倉義景自身も最終的には重臣の朝倉景鏡に裏切られて自害した。
浅井長政の討伐を敢行。ほぼ同時期に浅井家も滅亡する。
異説
義景は以下の事実から近江六角氏からの養子であった、という説がある。
・義景の父(宗淳孝景)と六角氏との間の密約
・義景側近に六角系苗字が多い
・六角氏の内紛に介入
・六角氏様式の花押と朝倉氏式のそれとを併用
・六角氏綱の子で仁木氏の家督を継承した仁木義政と親しい間柄であった。
譜代家臣団の大量離反や、朝倉当主の急激な指導力・求心力低下、
朝倉景鏡と義景の軋轢などを説明するのに、「朝倉氏の血脈である一門(筆頭・朝倉景鏡)、家来衆」と
「六角氏からの養子である本家当主」の対立という構図が解りやすく、今後の研究解明が待たれる説である。