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カール・デーニッツ

かーるでーにっつ

ドイツ海軍の軍人。 第二次世界大戦において潜水艦部隊司令官、海軍最高司令官、二代目第三帝国総統を務めた事で有名。

要項

カール・デーニッツ。(1891年9月16日~1980年12月24日)

ドイツの軍人。海軍元帥。第三帝国総統。

経歴

1876年4月24日、ベルリンにて誕生。

1910年、海軍兵学校入校。

1914年の第一次世界大戦勃発時は軽巡洋艦ブレスラウに配属されており、1916年より潜水艦部隊に転属し、UB25UB68艦長を務めるも1918年10月にUB68は撃沈され捕虜となる。

第一次世界大戦終結後も海軍に残り、駆逐隊司令、北部方面海軍司令部参謀、軽巡洋艦エムデン艦長を歴任。

1935年10月、大佐に昇進し、第1潜水隊司令に就任。

1936年1月、潜水艦隊司令官に就任。

1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。

10月、少将に昇進。潜水艦隊司令官から潜水艦隊司令長官へと格上げされる。

1940年9月、中将に昇進。

1942年3月、大将に昇進。

1943年1月、バレンツ沖海戦の敗退で辞職したエーリヒ・レーダー元帥の後任として海軍総司令官に就任、元帥に昇進。

1945年5月、ヒトラーの自殺後、第三帝国総統に就任。降伏手続きなどの処理を行う。

1945年11月20日より始まったニュルンベルク裁判において禁固刑10年を宣告される。

1956年10月、収監されていたシュパンダウ刑務所より釈放。

1980年12月24日、死去。

逸話

英国が所持するソナー探知機アスディックに対抗する為に舷側の低いUボートの特性を利用して浮上しての夜間雷撃を指示したり、護送船団には進路予想海域での複数のUボートによる群狼作戦を行い多大な戦果をあげた。

また各艦長の商船撃沈トン数を公表して潜水艦部隊での競争意識を煽り、士気の向上に努めた。

政治的手腕に優れ、海軍内ではそれまで脇役であった潜水艦部隊司令官から潜水艦部隊司令長官に格上げさせ、潜水艦部隊を水上艦隊とは独立した組織とするまでにした。

海軍総司令官就任後は、政府と距離を置いていた前任者レーダー提督と違い政府との関係は良好でヒトラーからの信任も得ており、また当初ヒトラーが指示していた大型艦廃艦命令を、縮小と幾隻かを予備役に編入という形で事実上撤回させる手腕も発揮している。

海軍総司令官就任後は、それまで海軍上層部に求めた潜水艦こそが決戦兵器であり、それに対する充分な支援を実現する為に大型艦の廃棄とそれによる乗員のUボートへの転用なども選択できたが、それにより水上艦隊に対処していた敵艦隊がUボート制圧に全力を投じれる事になる事は理解しており、ヒトラーの期待に反して水上大型艦の廃棄は行わない賢明さを見せた。

もっとも大型水上艦の扱いには疑問視される面も多く、夜間での戦艦の投入を提案してアウグスト・ティーレ中将に危険だと言われるや「私はUボートにも同じ事を命令している」と発言し、ティーレから「戦艦とUボートは違いますぞ」と反論された事もあるという。

ウィンストン・チャーチルから「戦争中に我々を最も恐怖せしめたのはUボートであった」と言われる程にイギリスの生命線である海上交通を脅かした彼のUボートであったが、海戦当時は大西洋海域で行動可能なものは26隻に過ぎず、開戦から一年経っても28隻の補充しかされず、それまでに損失28隻を出していた為に実質的に増強されなかった。

1939年9月に潜水艦部隊を視察したヒトラーにデーニッツは300隻のUボートがあればイギリスを屈服させることが出来ると力説したが、空軍を過信するヒトラーには受け入れられなかった。

1940年6月のフランス降伏でフランスの港が使用可能となり、大西洋への進出が容易になった為に数の不足をある程度は補えるようになり、ようやくUボートの生産数も増大していったが、1943年前半の段階で其の脅威はピークを超え、Uボートによる勝利の機会は失われていた。

Uボート作戦に従事した約四万名の将兵のうち約三万名あまりが失われ、その中にはデーニッツの次男であるぺーター・デーニッツも含まれていた。

潜水艦部隊の司令官であった年数と総統であった日々を題名とした自伝「十年と二十日間」を記述している。

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