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上泉信綱の編集履歴2018/04/09 22:15:59 版
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概要

上野国(現在の群馬県)出身。大胡氏の一族である上泉家に生まれる。

没年は天正5年(1577年)もしくは天正10年(1582年)と諸説あり、生年は不明(推測で永正5年(1508年)とも)。

「新陰流」の開祖であり、塚原卜伝と並んで戦国時代最強の剣豪と言われる人物。

その門下からも高名な剣豪を多く排出し、また隆盛を築いた柳生新陰流の始祖の師として剣聖とも称される。

上杉謙信の主君時代における上杉家において、諸家である山内上杉家の傘下である長野氏の長野業正に仕え、武田家や北条家の大軍勢との戦に参加して活躍し、謙信の関東出兵にも助太刀して一度失った大胡城の奪還に貢献するなど優れた武勇を誇った。

『長野十六本槍』の一人に数えられ、中でも信綱は『上野国一本槍』の異名で、業正と共に周辺地域から恐れられたと同時に讃え称された。

その後、業正の了承を得て弟子と共に諸国を巡り兵法指南を行ったとされ、修行した地である臨済宗妙心寺派の大寺院『妙興報恩禅寺(妙興寺)』に彼の修道跡の碑があり、後に彼が考案した無刀取りの発祥地となっている。

印可を与えた門下には後に柳生新陰流と呼ばれる継承者の柳生宗厳石舟斎)や宝蔵院流槍術の祖・胤栄、タイ捨流の丸目長恵などがいる。また、長恵とは共に「剣豪将軍」の異名で知られる室町幕府第13代将軍・足利義輝に剣術を教えたとされる。

エピソード

名前

現在でこそ「上泉信綱」の名で知られるが、資料では「大胡武蔵守(おおご むさしのかみ)」の名で記録されていることが多い。また「伊勢守(いせのかみ)」という名を使用したとされるがそういった資料は見つかっていない。

門下

京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞くとそこへ向かい、胤栄と柳生宗厳と出会ってこれを下し、その後門下として迎えたとする。

竹刀の開発

当時は剣術の稽古において木刀を使用していたこともあり、稽古中の怪我や、最悪の場合死亡事故なども頻繁に起こっていた。信綱は稽古での負傷を避けるため、割った竹を獣のなめし皮で包んだ「袋竹刀(ふくろしない)」を開発し、これが現在の竹刀の原型になったと言われている。

賊退治

信綱一行が尾張のとある村を訪れた際、賊が村の子供を人質に立て篭もっている現場に遭遇した。

助けようにも近づけば興奮した賊に子供が殺されかねないため手を出せずにいたが、信綱は同じく現場に居合わせた僧侶から服を借り、頭髪をその場で丸めて坊主に変装。握り飯を持って賊に近づき、その姿に油断した賊が警戒を解いたところをすかさず取り押さえたという。

このエピソードは、後に黒澤明の映画『七人の侍』のモデルにされている。

関連タグ

剣豪 剣聖

竹刀

Nobutuna - ゲーム実況実況者。上泉信綱が名前の由来となっている。

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