酒井忠勝
さかいただかつ
安土桃山時代から江戸初期の人物。同姓同名で2名いる。
酒井忠勝(小浜藩主)
酒井忠勝(庄内藩主)
生涯
【生没】1594年~1647年
アホの方の忠勝。
左衛門尉酒井家の宗家で、徳川四天王の一人酒井忠次の孫に当たる。父は酒井家次。
越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石を経て、出羽庄内藩主13万8000石に落ち着く。
入部早々総検地で5万3000石もの厳しい増税を行ったため逃散や強訴が相次いだが、嫡男・酒井忠当の嫁の父に当たる松平信綱が握り潰したため事なきを得ている。
しばらく後に4000石の領地に対し石高を倍にする重税をかけ1000人も餓死者を出す苛政を行い改易された三弟・酒井忠重を預かることになるが、その専横を許した上に忠当を廃嫡し忠重の子に相続させるお家乗っ取り計画に利用されてしまう。
だが忠当を擁護する重臣たちを排除し松平信綱も干渉できない状態に陥らせ廃嫡まで間もなくというところで死去。なんとか忠当は家督を継ぐことができた。
その生涯で手討ちにした家臣は300人、そのうち自ら斬ったのは120~140人とも言われている。
信濃藤四郎や安国寺肩衝といった名物を購入しており、その持ち主となっている。