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大宝寺城

だいほうじじょう

大宝寺城は、出羽国に鎌倉時代から戦国時代後期まで存在した日本の中世城郭である。名前を変え近世城郭として生まれ変わってもいる。
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概要編集

この城は平城(平地に築かれた城)であり、出羽国大泉荘(現在の山形県鶴岡市)に存在していた。鎌倉時代初期に豪族であった大泉氏(後の大宝寺氏)によりそのもとが作られた。戦国時代である16世紀初めごろにこの城は焼失し、別の城の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)として再建された。この地は複雑な争奪戦が発生し、結果として上杉景勝の領地となったものの、やはり支城となった。16世紀の終わりごろ一揆が起こり、それを平定した直江兼続により修復された。

 しかし上杉氏は関ヶ原の戦いに西軍にて参戦したため領地を没収され、最上義光がこの地を支配することとなる。この地の拠点として東禅寺城尾浦城などとともに城を整備し、同時に城の名称も変更した(東禅寺城は亀ヶ崎城、尾浦城は大山城に、そしてこの城は鶴ヶ岡城となった)。

 その後最上氏はお家騒動により改易され、新たに酒井忠勝(徳川四天王の筆頭酒井忠次の長男の長男)がこの地に入ることとなる。上杉、最上と異なり他の領地を所有していなかったため、鶴ヶ岡城を本城にし、亀ヶ崎城を支城にした(これはこの石高の大名としては異例のことである)。その際この城郭を近代化改修し、現在の形にした。

 戊辰戦争において強硬に抵抗したこともあり、この城は廃城令において建築物は全て破却、跡地は公園(鶴岡公園)となった。


関連項目編集

戦国時代 日本史

参照編集

wikipedia鶴ヶ岡城

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