酒井忠勝(小浜藩主)
生涯
【生没】1587年~1662年
賢い方の忠勝。
雅楽頭酒井家の分家で、若狭小浜藩12万3000石の藩主。
徳川家光、家綱の信頼が厚く幕政に参与し老中、大老を歴任した。
江戸にいることが多かったため小浜藩にはあまりいなかったが、法を制定して藩政の基礎を築いた。
酒井忠勝(庄内藩主)
生涯
【生没】1594年~1647年
アホの方の忠勝。
左衛門尉酒井家の宗家で、徳川四天王の一人酒井忠次の孫に当たる。父は酒井家次。
越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石を経て、出羽庄内藩主13万8000石に落ち着く。
入部早々総検地で5万3000石もの厳しい増税を行ったため逃散や強訴が相次いだが、嫡男・酒井忠当の嫁の父に当たる老中・松平信綱が握り潰したため事なきを得ている。
しばらく後に失政で改易された三弟・酒井忠重(4000石の領地に対し石高を倍にする重税をかけ1000人もの餓死者を出した)を預かることになるが、その専横を許した上に忠当を廃嫡し忠重の子に相続させるお家乗っ取り計画に利用されてしまう。
忠当を擁護する重臣たちを排除し松平信綱も干渉できない状態に陥らせ廃嫡まで間もなくというところまで行ってしまうが、そこで死去したためなんとか忠当が家督を継ぐことができた。
その生涯で手討ちにした家臣は300人、そのうち自ら斬ったのは120~140人とも言われている。
信濃藤四郎や安国寺肩衝といった名物を購入しており、その持ち主となっている。
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酒井忠勝(小浜藩)
酒井忠勝(庄内藩)