宇喜多秀家
うきたひでいえ
宇喜多秀家(1572年-1655年12月17日?/元亀3年-明暦元年11月20日?)は、日本の戦国時代から江戸時代前期の人物。
概要
備前国岡山城城主の宇喜多直家の長男。幼名・於福。通称・八郎。
初名は家氏だったが、後に豊臣秀吉より偏諱を受けて秀家と名乗る。
天正9(1581)年、父の遺領を相続する事を、秀吉の斡旋によって秀吉の主君・織田信長から許される。
翌年、備中高松城攻めの講和後に、備前・美作・備中3国57万石を秀吉より安堵され、秀吉の養女で前田利家の娘である豪姫と結婚。
その後も秀吉に従軍し、小田原攻め、文禄の役では総大将、慶長の役では監軍として出陣するなど戦功をあげて累進していき、文禄3(1594)年には権中納言に任ぜられた。
慶長3(1598)年には「五大老」に列せられ、2年後の関ヶ原の戦いでは石田三成らにより西軍の総帥に擁され西軍最多となる1万7000の兵を持って出陣し、東軍主力を相手に優勢に戦を進めるも小早川秀秋の裏切りの煽りを受けて敗退し、島津義弘を頼って薩摩国に逃れた。
慶長8年、島津・前田両家からの嘆願で死罪を免れ、3年後には八丈島に配流された。
この際、嫡子・孫九郎らもつき従い、秀家は剃髪して休復(久福、休福とも)と号した。
困窮した生活の末、明暦元年に死亡。享年83歳。当時は既に江戸幕府四代将軍家綱の治世で、関ヶ原の当事者としては最も遅くに没した。寛永2(1625)年に死亡したという説もある。
一族は明治以降東京に移り住んだが、一部は八丈島で墓の管理をしている。
創作物での宇喜多秀家
采配のゆくえ
名門故のプライドが高く、居丈高な性格。
信長の野望
直家死後の宇喜多家当主として登場。若すぎたせいか、他の五大老に比べていまいちパッとしない能力値に設定されている(毛利輝元よりはマシだが)。家臣は小粒揃いではあるが、突出した能力を持つ者はおらず、周囲の勢力も既に固まってしまっているため結構上級者向け。
2ちゃんねる
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
の名フレーズでお馴染のネタ。
戦国時代板の大坂の陣総合スレ発祥の長文コピペで、その後
八丈島から秀家が泳いで大坂城に入れば大坂の陣を勝てていたというコンセプトでたてられた
「泳 げ よ 宇 喜 多 秀 家」スレッドでも、この長文が貼られた事で再評価される。