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リーハイ・バレー鉄道の編集履歴

2020-06-09 13:32:58 バージョン

リーハイ・バレー鉄道

りーはいばれーてつどう

複数の意味を指す。本文参照。

曖昧さ回避

  1. ニューヨークとエリー湖を結んだLehigh Valley Railroad
  2. ペンシルバニア州アレンタウン周辺で路面電車を運行したLehigh Valley Transit Companyの日本での呼び名。

両方について解説する。

そもそもリーハイ・バレーって?

ペンシルバニア州アレンタウン、ベツレヘム、イーストン周辺の地域を指す。上記の2鉄道はどちらもこの地域に路線を持っていた。


Lehigh Valley Railroad

ペンシルバニア州で産出する無煙炭は、消費地である海岸部へ船で運搬されており、輸送はリーハイ炭鉱汽船(Lehigh Coal & Navigation)とデラウエア・アンド・ハドソン運河会社(Delaware & Hudson Canal Company、後のデラウエア・アンド・ハドソン鉄道)の2社が主に担っていた。炭鉱から沿岸部まで石炭を輸送する鉄道を敷設してこの状況を変えるべく、デラウエア・リーハイ・スクールキル・アンド・サスケハナ鉄道(Delaware, Lehigh, Schuylkill & Susquehanna Railroad)が1847年に設立された。同社は当初資金集めに難渋したが、リーハイ炭鉱汽船で船舶の運航や製造を担い財を築いたアサ・パッカーの支援を得て、1853年にリーハイ・バレー鉄道(Lehigh Valley Railroad)として再スタートを切った。

1855年に最初の路線を開業。当初イーストンで運河へ石炭を積み替えていたが、対岸のニュージャージー州フィリップスバーグへ架橋し、ペンシルバニア鉄道など北東部の主要鉄道会社と連絡。大都市への鉄道による運炭という目標を実現した。その後もパッカーの経営のもと、数多くの炭鉱鉄道や運河会社を買収して路線を拡大。1892年にエリー湖岸のバッファローに達し、1899年にはハドソン川のニュージャージー州側にターミナルを建設した。1896年には旅客列車の運行を開始。看板列車の「ブラック・ダイヤモンド」はニューヨークとバッファローとを結び、ナイアガラの滝へ向かう新婚旅行客も多く運んだ。

急成長を遂げたリーハイ・バレー鉄道は、他社による買収の格好の的となった。リーハイ・バレー鉄道同様に無煙炭の輸送で成長したフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道(後のレディング鉄道)が1890年から短期間リーハイ・バレー鉄道の経営を握った。また1897年には銀行家のJ.P.モルガンがリーハイ・バレー鉄道を買収することとなる。その後1928年からは、ペンシルバニア鉄道が株の買い付けを開始し、経営権を握るようになっていった。

しかし運炭で発展したリーハイ・バレー鉄道は、石炭産業の衰退とともに斜陽の時代に入った。第二次世界大戦中こそ輸送量は増加したが、戦後は高速道路や航空機との競争もあり、無煙化やピギーパック輸送の開始などの企業努力にも関わらず、配当が不可能なほど経営が悪化していった。「ブラック・ダイヤモンド」は1959年に廃止、旅客輸送自体も1961年には全廃となる。

このころには他の鉄道会社の経営も悪化しており、中でも戦前より極めて高い密度で路線が敷かれ、激しい競争が繰り広げられた東海岸地域では特に問題が深刻だった。このため連邦政府は競合関係にある鉄道会社の合併を推進した。1968年、長年のライバルだったペンシルバニア鉄道とニューヨーク・セントラル鉄道が合併してペン・セントラル鉄道が誕生した。けれども両社がそう簡単に協力に転じるはずもなく、ほとんど経営再建を果たせないままペン・セントラル鉄道は1970年6月21日に破綻してしまった。このあおりを受けてリーハイ・バレー鉄道も7月24日に破綻することとなった。

アメリカ合衆国北東部の鉄道網の中枢であったペン・セントラル鉄道の破綻を受け、政府が後処理に向けて動き始める。当初は国有化の案もあったが、民間会社のコンレールを新たに設立し、同社が政府の支援を受けつつ、破綻した北東部の鉄道会社の路線を一元的に運行することとなった。リーハイ・バレー鉄道は当初自力での再建を目指していたが、政府が資金を投入するコンレールに対抗しつつ路線を維持するだけの体力はもはや残っていなかった。結局リーハイ・バレー鉄道はコンレールへの参加を決定。1976年、コンレールの発足とともに、アメリカにおける鉄道による石炭輸送の先駆けとなったリーハイ・バレー鉄道は121年の歴史に幕を下ろした。

現在でも、かつてのリーハイ・バレー鉄道の路線の一部がノーフォーク・サザン鉄道によって使用されている。


Lehigh Valley Transit Company

「Lehigh Valley Railroad」のリーハイ・バレー鉄道も通っていたペンシルバニア州アレンタウンを中心に路面電車を運行した会社である。アレンタウンとノリスタウンを結ぶ郊外路線も有し、ノリスタウンからフィラデルフィア・アンド・ウエスタン鉄道(現在のSEPTAノリスタウン線)へ乗り入れてインターアーバンとしての役割も果たしていた。この路線は自由の鐘(Liberty Bell、ペンシルバニア州議会議事堂の鐘)が米英戦争中アレンタウンへ疎開されたことに由来する「リバティ・ベル・ライン」の名で呼ばれた。

1930年代には廃止となったシンシナティ・アンド・レイク・エリー鉄道の高速路面電車「レッド・デビル」やインディアナ鉄道の車両を導入し、時速100km/hを超える高速運転を行うなどしたが、利用者の減少は避けられず、1951年に郊外線を廃止、1952年には残ったアレンタウン市内の路線も廃止して鉄道事業から撤退した。

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