概要
1958年、父親の定年により岡山県久米南町に引っ越す。少年時代はプロ野球選手を夢見ていた。
1964年、津山工業高校を卒業後、山陽電気鉄道に就職するが、1969年に退職。
1970年、ビッグコミック新人賞佳作に入選するが、どこからも仕事の依頼は来なかった。その後、デザイン会社、久米南町職員、大阪のビアホールでのアルバイト、パチンコ店の店員、キャバレーのボーイなど職を転々とした。
1975年、デザイン会社「青木デザイン」を設立するが、1983年に倒産。その間も持ち込み用の漫画を描き続ける。
1989年、『50億円の約束手形』でアフタヌーン四季賞入賞。
1990年、モーニングで『ナニワ金融道』の連載を開始する。後に多くの金融漫画がブレイクする契機となった作品である。
1992年、講談社漫画賞を受賞。
1997年、「一生暮らせるだけの金は稼いだ、残りの人生は遊んで暮らす」と宣言し『ナニワ金融道』の連載を終了させ漫画家を引退、以後は講演や著作に励む。
1998年、手塚治虫文化賞を受賞。
2003年、58歳で死去。
※参照:PIXIV GINGARO「ナニワ金融道 原画展」作者プロフィール
作風
実体験もあり作品での金銭の話はシビア。そして何より登場人物が主人公等を除き大抵下ネタの当て字で、背景に描かれる看板や企業・店舗の名前でさえ下ネタ。
「ミナミの帝王」の映画に著作権を侵害された事から敵視し、作中に「ミナミのセンズリ銀行」こと「銭田掏二朗」を登場させるなどしていた。