概要
マイケル・ジョーダン(Michael・jrodan)とは84年〜2003年に元シカゴ・ブルズ、ワシントン・ウィザーズでプレーしたNBA選手である。エア・ジョーダンやバスケの神として親しまれている。
引退後は最後に所属したウィザーズのマイノリティオーナー(複数人がオーナーを務める中のひとり)をしていたが2006年、大学時代を過ごしたノースカロライナ州のチームシャーロット・ボブキャッツ(現シャーロット・ホーネッツ)を買収し、念願の個人オーナーとして活動している。
プロフィール
所属チーム
ノースカロライナ大学(NCAA)→シカゴ・ブルズ(NBA)→バーミングハム・バロンズ(MLB)→シカゴ・ブルズ(NBA)→ワシントン・ウィザーズ(NBA)
身長198cm
体重98kg
ポジションSG
背番号23→45→23
大学〜1度目の引退
現在も毎年のようにNBA選手を輩出し、当時も有名であったノースカロライナ大学のエースとしてプレー。伝説的な活躍をし、3年終了時に1984年のNBAドラフトにエントリー。3位指名でシカゴ・ブルズに入団し、85〜86シーズンにルーキーとしてプレー。1位アキーム・オラジュワンや5位チャールズ・バークレー、16位ジョン・ストックトンと言う後の殿堂入りプレイヤー達を抑え新人王を受賞し、オールスターにも出場(いじめに遭いパスはマトモに貰えない苦いモノとなったが)する大当たりドラフト選手となるが、2年目は負傷に苦しみ欠場が多く平均点も6点ダウンするキャリアで最も苦しいシーズンとなった。
3年目には完全開花し、得点王を取るが、チームは毎年プレーオフで瞬殺されるシーズンが続いた。
4年目には永遠のパートナースコッティ・ピッぺンが入団。勢力図に変動はあったが、しばらくはデトロイト・ピストンズに苦戦するシーズンになった。
入団から5年後の90〜91シーズン。ついにピストンズを破り、NBAファイナルに進出。ファイナルを4勝1敗で制し涙の初優勝となり、そこから3連覇を達成し、確たる地位と栄光を掴んだが、3連覇したシーズンオフに父親が不慮の事故で他界。そのショックと3連覇を達成した事によるモチベーションの低下、燃え尽きたと言わんばかりに電撃引退をする。
まさかのメジャー挑戦へ
引退後は突然野球への転身を決断。シカゴのチームのキャンプに参加。
マイナーリーグのバロンズに入団するが、目も当てられない(10年ブランク&ピッチャーの野手転向もあったが)結果であった。
NBAでの稼ぎを使いチームにバスの寄贈などをしていたが、メジャーに昇格する事はなかった。
復帰〜ブルズの最後
2年の引退期間を経て復帰。エースとして活躍するもプレーオフ2回戦では次世代のスターと大注目のアンファニー(ペニー)・ハーダウェイ&シャキール・オニール率いるオーランド・マジックに敗戦。ジョーダンはブランクの影響もありミスを連発してしまう。
オフには猛特訓を重ね、チームはデニス・ロッドマンを補強。またも3連覇を達成。キャリアで6度の優勝を果たす。
しかし、チームはHCがシーズン後に退団を表明し、ピッペンは修復不能なまでにチームとの関係性が悪化。ロッドマンとジョーダンは引退しておかしくない年齢となり、コーチ、ピッペン、ロッドマンの退団もあり、ジョーダンは2度目の引退をする事になる。
ウィザーズ時代。
引退後はワシントン・ウィザーズのマイノリティオーナーに就任。ドラフトからトレードまでの人事を担当することになる。20勝前後と非常に低迷(NBAは82試合)するウィザーズを救うべくドラフト1位で史上初の高卒選手クワミ・ブラウンを指名。が、これが歴史に名を残す程の大失敗ドラフトとなり、相変わらず低迷。
自らが復帰し、チームを活気づけるが2シーズンで勝ち越す事は1度もなく3度目の引退。
ウィザーズのスタッフ復帰を目論むが解雇され、ウィザーズを離れる。
ボブキャッツ買収〜現在。
ウィザーズから離れ3年後の2006年。大学時代を過ごしたノースカロライナ州のチーム、シャーロット・ボブキャッツのマイノリティオーナーに就任。最初の仕事となるドラフトでは3位の高順位を確保していたが、ここでも歴史に名を残す大失敗となるアダム・モリソンを指名。この辺からジョーダンのドラフトのセンスの無さが疑われ始める。
2010年にはボブキャッツを完全に買収。個人オーナーとなり、完全にジョーダンの経営するチームとなる。たまにチーム練習に参加し、選手をコテンパンにして喝を入れるなどの名物オーナーとなりつつ、勝てないチームに投資はしないシビアな金銭感覚を持つオーナーとなった。
...しかしオーナーとしての力量は正直ひどく、ノースカロライナの人間を集める事にこだわり人事のミスも多く、致命的なドラフトミスも多く現在に至るまでの14年。シャーロットボブキャッツ、改名後のホーネッツは3度しか勝ち越しをしていない。