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ミニエー銃の編集履歴

2020-09-27 20:44:22 バージョン

ミニエー銃

みにえーじゅう

ミニエー弾を使用する銃器。

概要

ミニエー銃(ミニエーじゅう、Minié rifle)は、パーカッションロック式(雷管式)の前装式歩兵銃である。プリチェット弾を使う銃としては最初期の物で1849年にフランス陸軍のクロード・エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。


本来滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、ライフルド・マスケットとも呼ばれる。従来使用されていたゲベール銃(マスケット銃の一種)の銃身に改修を施す方法で製造された。ミニエー弾と呼ばれる独特の弾薬を使用した。


ミニエー銃は1850年から60年まで製造、1850年から70年までの約20年間しか使用されなかったが、銃砲史上最も有名な小銃方式のひとつであり、主に英国のエンフィールド工廠、米国のスプリングフィールド工廠などで多量に生産され、クリミア戦争南北戦争などの大戦争で使用され、およそ数十万人がこの銃の犠牲になったと推定される。


旧式化が明らかになると、後装式銃に改造されたり、アジアやアフリカなどに輸入されたりした。


ミニエー弾

ミニエー銃の弾丸(ミニエー弾)はドングリ型(椎の実型)の鉛弾(プリチェット弾)で、弾丸の周りには溝(タミシエ・グルーヴ)が3条切られて凹凸があり、この凹部にはグリス状の脂を付着させていた。底部はスカート状に窪んでおり、窪みはコルク(圧入プラグ)などで埋められている。弾頭とコルク、火薬はそれまでのマスケット銃と同様に紙製薬莢の形態で兵士に支給された。


発射されるまでのミニエー銃の弾丸は銃身の内径より小さい寸法であるために、布片(パッチ)にくるむと銃口内径よりも直径が大きくなる丸玉をライフリングに食い込ませるように装填するヤーゲル銃ベイカー銃と比較して、銃口から弾丸を押し込む際の労力は少なくなった。


ミニエー銃の前に登場したライフルド・マスケットのブランズウィック銃では、丸玉自体にライフリングに噛み合うベルト状の突起が初めから設けられた特殊弾を用いる事で、ベイカー銃の初弾の装填の困難さの克服を図っていたが、銃口からライフリングが視認しにくい夜間や、銃身内部がひどく汚れてくると次第に装填が難しくなる欠点が依然として存在した。


ミニエー弾は発射時の圧力で押し込まれたコルクがスカートを外側に膨張させると、弾丸周囲の溝の凸部は銃身内のライフルに食い込みながら密着する。この事で圧力の漏れを無くし、ライフルによる回転を弾頭に与える事に成功している。こうした構造により多数の弾を射撃して黒色火薬や鉛弾頭の残渣で内径が狭くなった銃身であっても、比較的再装填は容易であった。


また、ミニエー弾以前には薬室底部に丸玉と同じ半球型の窪みを設け、槊杖で丸玉を無理矢理変形させる事で弾頭のライフリングへの密着度向上を期待するアンリ・ギュスタヴ・デルヴィーニュのデルヴィーニュ・ライフル(1826年採用)や、デルヴィーニュ・ライフルに更なる改良を加え、薬室内部にステム(平頭のピン)を予め設けておく事で、中実のプリチェット弾を装填する際にステムがプリチェット弾の底部をドーム型に変形させ、弾頭のライフリングへの密着度向上を図ったルイ・エティエンヌ・トーヴナンのステム・ライフル(1846年採用)といった発案が存在したが、これらの薬室側に弾頭底部を変形させる何らかの構造を有したマスケット銃は、射撃を重ねて薬室内部に汚れが堆積すると最終的に弾頭底部の変形構造が機能しなくなり、機能回復の為の清掃作業にも大きな困難が伴った。ミニエー弾はフランス陸軍のデルヴィーニュやトーヴナンの発案と戦場で得られた戦訓、その欠点の改良の中でフランソワ・タミシエにより1849年に考案されたものであった。


陸戦に与えた影響


ミニエー銃は出現当時としては桁外れに強力な銃器であり、エンフィールド銃を例に取れば有効射程は一挙に300ヤード(約270m)とマスケット銃の3〜6倍、ライフルの1.5倍に延長され、最大射程は1000ヤード(約914m。これは当時の砲の射程にあたる)。


ミニエー銃とその派生小銃はそれまでの陸戦で用いられていた戦術を大きく変えてしまった。敵味方双方の装備が有効射程50ヤード足らずのマスケット銃である事を前提とした戦列歩兵がミニエー銃を装備して相対した時、双方ともそれまでとは比較にならない損害が発生する事となった。そしてどちらか片方の部隊が発砲した時、もう片方の部隊が壊滅する事が戦闘内で多発した。


この時代の戦争を描いた映像作品、例えば南北戦争が題材のグローリーや、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を描いた1864などでは、戦列歩兵の陣形を取った部隊が敵陣まで漫然と徒歩でにじり寄っていき、敵方のミニエー銃の一斉射撃に次々と薙ぎ倒されていくという、後年の第一次世界大戦や日露戦争などの映像作品における重機関銃に銃剣突撃で立ち向かう構図に類似した描写がされており、ミニエー銃が如何に殺傷能力の高い兵器であったか、そして用兵側のミニエー銃の威力に対する理解が如何に不足していたかという不条理が淡々と描き出されている事が多い。


ミニエー銃は1850年代中盤にフランスやイギリスなどに実戦配備されて以降、概要で記述した南北戦争やクリミア戦争の他にも、インド大反乱太平天国の乱第二次イタリア独立戦争メキシコ出兵普墺戦争三国同盟戦争太平洋戦争(1879年-1884年)など世界各地の陸戦に投入され、太平天国の乱における常勝軍のように、旧来のマスケット銃で武装した大軍団が寡兵のミニエー銃装備部隊に完膚なきまでに瓦解させられる事例がしばしば発生した。


また、弾頭が回転しながら人体に食い込んでいくミニエー弾は、従来の丸玉よりも人体に対する破壊力が遥かに大きく(文字通り、手足が千切れ飛ぶ)、弾頭に塗布された動物性油脂はしばしば銃創に深刻な感染症や壊疽を発生させ、傷痍軍人の予後を大いに悪化させる要因ともなった。

そして、当時の医療技術では、ミニエー銃が原因でできた怪我や銃創を治せなかったため、感染症や毒が回る前に手足を切断される事が多かった。


その後

1860年代に金属薬莢を使用する連発銃が登場すると、ミニエー銃は他の多くのライフルド・マスケットと同様に時代遅れの小銃となりつつあり、1864年にスナイドル銃に類似した構造の側方開閉後装式のタバティエール銃に改装された。スナイドル銃の側方開閉ブリーチが日本語で煙草入れ(スニフ・ボックス)を意味する莨嚢式(ろくのうしき)と呼ばれるのは、このタバティエール銃にちなんだものである。


そのタバティエール銃も普仏戦争の前には単発ボルトアクション式単発銃のシャスポー銃に置き換えられ(しかし、シャスポー銃には致命的な欠点があり、実用品には程遠かったため、タバティエール銃はシャスポー銃とともに並行使用された。)金属薬莢化改装のグラース銃を経て無煙火薬を用いた革新的な連発銃(反復式小銃)ルベルM1886小銃へと繋がっていく。


他にも、アジアやアフリカなどにも輸入された。


日本のミニエー銃

ライフルへの過渡期で短期間とはいえ、様々な派生銃が存在する、


関連タグ

マスケット銃


外部リンク

ミニエー銃 - Wikipedia

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