概要
1939年に開発され、第二次世界大戦初期から中期にかけてT-34中戦車と共にソ連軍機甲部隊の中核をなした。本車を設計したコーチン技師の義理の父親で、当時のソ連国防相でもあるクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)の名を冠して略称はКВ、英語ではKV、ドイツ語ではKWと表記される。
開発設計
1937年にT-35多砲塔重戦車の後継車両の開発がレニングラードのキーロフスキー工場とボルシェビク工場に命じられた。
その結果、キーロフスキー工場のSMKとボルシェビク工場のT-100と呼ばれる多砲塔重戦車が競合試作されたが、車体が巨大・大重量になり過ぎたことにより装甲強化の制約をうけたり機動・戦闘操作の困難さが生じるなど、多砲塔戦車の欠点は明らかになりつつあった。
図面やモックアップの段階では砲塔が3~5つあった両戦車は、多砲塔戦車に懐疑的であったスターリンの不興もあって試作段階では2砲塔式に改められ、キーロフスキー工場では独自の代替案として単一砲塔式重戦車の並行開発に着手し、それがKVと名付けられた。
1939年夏までにKVの試作車両は完成し、クビンカの試験場で審査が行われた。
機動性や操作面でもSMKやT-100よりKVが優れていると報告され、フィンランドへの侵攻(冬戦争)が始まると実戦試験のために前線に投入された。そこでますます単一砲塔のKVの優位性が確認され、1939年12月にKV-1の制式採用が決定した。1942年までに3000両以上が生産された。
外見的特徴
KVは並行開発されたSMKと各部のデザインや部品が共通しており、SMKの縮小・単砲塔化型と言われている。
KVの試作砲塔はSMKの主砲塔と酷似していたが、こちらは76.2mm砲と45mm砲を並列装備していた。しかし、KVではすぐに76.2mm砲のみに改められた。足回りにはSMK同様スウェーデンのランズベルク軽戦車に倣ったトーションバー・サスペンションが採用されたが、これはもともと冶金工場であったキーロフスキー工場だからこそ導入できた新技術であった。転輪および履帯も当初はSMKと同じものが使用されたが、車体の小型化に伴ってSMKでは片側8個だった転輪はKVでは6個に減らされている。この初期型転輪は他の普通の戦車と違ってリム部が鋼製で緩衝用ゴムをリムとハブの間に挟み込んで内蔵するという独特の構成であった。
実戦参加
装甲は初期の型で砲塔前面90mm、側面で75mm、後期型の砲塔全周は120mmの重装甲を誇る。
独ソ開戦時にはドイツ軍の戦車砲・対戦車砲に対してはほぼ無敵を誇り、とある部隊では156発の砲弾を食らいながら44両の装甲車両を撃破している。しかし、SMKに比べ小型・軽量化されたとはいえ40トンを越える車重はクラッチとトランスミッションに過大な負荷を強いた。
そのため、故障損失のほうが戦闘損失より多く、行軍時に橋や道路に損傷を与えて他の戦闘車両の通行を阻害することも問題視された。後期の生産型になるほど装甲は強化されたため重量過大による信頼性の欠如は深刻化するばかりで、1942年にはついに新型トランスミッションを搭載するとともに車体・砲塔ともに設計をリファインし、KVの基本設計の範囲内でできる限りの軽量化を図ったKV-1Sが開発されて生産に移された。
また、76.2mmの主砲は当初30.5口径のL-11、その後39口径のF-32、さらに41.6口径のZIS-5と生産が進むにつれて漸次強化されていったが、それでも中戦車であるT-34と同等で重戦車としての存在意義を常に問われることになった。主砲は改良型のKV-1Sでも変わらず、そのためドイツ軍の新型重戦車ティーガーの登場を契機に、より強力な新型重戦車としてKVの発展型であるISが開発されることになる。
派生型
・KV-2
KV-1の車体に、152mm榴弾砲を搭載した大型砲塔を載せた陣地攻撃用戦車。
KV-1Sの車体に、152mm榴弾砲を搭載した自走砲。
IS系重戦車の量産体制が整うまでの穴埋めとして、KV-1Sに85mm戦車砲を搭載した少数生産型。
他にも火炎放射戦車のKV-6や-8、地雷処理車などが使用された。