概要
詳しい生年月日は不明だが戦国時代末期から江戸時代初期の大名家である蒲生家や上杉家に重臣として使えていた形跡がある。
経歴
若狭太良庄城で生まれた後暫くは浪人として活動していたが、蒲生氏郷を見出してからは彼に仕え戦功をあげる。が、氏郷が若くして亡くなった後にお家騒動が起きた時蒲生家は石高を大幅に減らされてしまい、「今の蒲生家は自分がいると負担になってしまう」と入れ替わりで会津に入ってきた上杉景勝に仕える。ここでも重臣として重宝されたが結局上杉家は関ケ原の戦いに負けて減俸、かわりに加増された蒲生家に戻ることになった。
逸話
お金にまつわるエピソードが多い。
軽輩の頃から財テクに巧みであり、部屋中に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝するのが趣味であり、それが知られた当初は「守銭奴っぽいけど武士としてどうなんです、それ?」と周囲から白い目で見られていた。
だが、北条征伐の時氏郷が配下を招集すると、左内はその金を利用し武具も馬も気合を入れたものを揃えて馬揃(閲兵式)に参加。自分が金を集めていたのはいざという時に人一倍戦場で働くためだということを示し主君をはじめとした周囲の評価を改めさせる。
また上杉家に仕えていた時は、会津征伐の時に溜めていた金銭を「金というのは溜めるときは溜め、使う時は使うものです」と景勝に貸し出して上杉家の軍備を確保した上に、敗北が決定したあと借財に困っていた家中の者の借金の証文を焼き捨ててチャラにして蒲生家に戻るという太っ腹をみせ、直江兼続にその人物を惜しまれた
一方で意外に腕もたち、関ケ原の戦いの東軍勝利に連動して伊達政宗が上杉家を攻撃した時、これを返り討ちにし逆に政宗を討ち取る一歩手前まで追いつめたという。その時政宗は恥も外聞も捨てて粗末な武具に身を包んで誤魔化し肉薄してきた左内から命からがら逃げ切ったらしく、そのことを後で知った左内は「なんてこったい、そんなことならもっと粘って討ち取ればよかったよ畜生!」と悔しがったという。
創作では
上田秋成の雨月物語にて貧富論として登場し主人公としてお金の精霊と語り合う物語が収録されている。
また、関ケ原当時は上杉景勝に仕えていたというのもあって、直江兼続や前田慶次と一緒に登場したことも。