概要
フランソワ・ジェラール・ジョルジュ・ニコラ・オランド(フランス語:François Gérard Georges Nicolas Hollande、1954年8月12日 - )は、フランスの政治家。第24代フランス大統領、アンドラ共同大公。コレーズ県議会議長、国民議会議員、チュール市長、社会党第一書記を歴任した。
パリ西部近郊ヌイイ=シュル=セーヌに居住し、リセ・パストゥールに通った。所属は社会党。法律を学び、弁護士や会計監査院検査官として活動した他、ミッテラン元大統領の下でも働いていた。2012年にニコラ・サルコジを破って大統領となり、リーマン・ショックに端を発する不況からの脱出のため、教育関連の職に就く公務員増員による雇用拡大・年金改革を掲げ、財源として一定以上の収入を得た国民から徴収する富裕税の引き上げを主張した。
しかし思うように改革は進まず、本来左派系にも関わらず財界寄りの政策を主張するようになったために格差是正を期待した元々の支持層も離れ、自身の女性問題などもあり、歴代最低の支持率(調査は1996年から)を記録してしまった。
更にオランドの失望の影響により、極右政党のマリーヌ・ルペン率いる国民戦線の支持率の上昇に繋がっている。
経歴
1954年8月12日にセーヌ=マリティーム県ルーアンにて誕生する。パリ西部近郊ヌイイ=シュル=セーヌに居住し、リセ・パストゥールに通った。1972年にバカロレアに合格した。パリ第2大学(通称:パンテオン・アサス)で法学士の学位を取得した。1974年以降HEC経営大学院(パリ経営大学院)とパリ政治学院(シアンス・ポ)に入学。シアンスポでは公共政策のディプロマを取り、またフランス全学連の委員長を務める。さらに、フランソワ・ミッテラン支援委員会の委員長を務めていたが、1979年にオランド自身社会党に入党している。1980年にフランス国立行政学院(エナ)に入学し、セゴレーヌ・ロワイヤルともこの頃に出会う。エナを7番で卒業後にフランス会計監査院の検査官となる。その後はジャック・アタリ、ジャック・ドロールの後押しにより、フランソワ・ミッテランの参事官となる。
政界入り
1981年にジャック・シラクの対立候補として1981年フランス議会総選挙に立候補するが、第1回選挙で敗退する。シラクが50パーセント以上の得票率であったのに対し、オランドの得票率は26パーセントでしかなかった。しかしミッテランの大統領選挙勝利によって、側近であるオランドは大統領官邸での任務(経済問題)を担当することになる。1983年にピエール・モーロワ内閣で次々に現れた2人のスポークスマンであるマックス・ガロとロラン・デュマの官房長となる。同年に市町村議会選挙に立候補するが敗れ、ジャック・シラクの選挙区であるコレーズ県ユセルの市町村参事会員となる。
1984年に派閥争いに嫌気がさし、数人の友人で特にジャン・イヴ=ル・ドリアン、ジャン・ピエール=ミニャール、ジャン・ミシェル=ガイヤールなどと共に社会党の超派閥集団を結成した。
1988年にミッテラン大統領が再選された後、コレーズ県第1選挙区で53パーセントの得票数を得て国民議会議員に当選した。同年から1991年まで政治学院で第3学年の学生に経済学を教える。1990年にレンヌの党大会でモロワ=メルマッズ=ジョスパンの動議を支持した。
1993年に国民議会議員の任期を終了すると、1997年までジャック・ドロールの政治集団「クラブ・テモワン」を主宰する。現在彼は名誉会長を務める。会計監査院行政官としてのオランドは、弁護士職と同等の資格を持っており、暫くの間友人のジャン・ピエール=ミニャールの事務所で働く。
社会党第一書記
1994年に社会党で経済問題担当全国書記となる。ジャック・ドロールが大統領選挙への立候補を断念した後、リオネル・ジョスパンに接近する。ジョスパンは自らの大統領選挙キャンペーンの、また1995年10月には社会党のスポークスマンに起用した。
多元的左翼勝利の後、1997年に再び代議士(得票率54パーセント以上をもって)となり、ジョスパンも首相に指名された。ジョスパンは自らの後継者として社会党第一書記(党首)の地位をオランドに託した。以後10年間に渡ってフランス社会党第一書記を務めた。調整型といわれる半面リーダーとしての決断力に欠けるとの声もある。
1999年に欧州議会議員に選出され、社会主義インターナショナルの副議長に選出されている。2001年からはチュール市長も務めた。
2007年には同年の大統領選挙にも出馬したセゴレーヌ・ロワイヤルとの事実婚関係を解消した。その後ジャーナリストのヴァレリー・トリールヴァイレールと事実婚関係となった。
第24代フランス大統領
2012年フランス大統領選挙への出馬を目指し、社会党の予備選挙に立候補を表明した。2010年10月に行われた予備選挙の決選投票で現在の第一書記であるマルティーヌ・オブリーを破り、大統領選挙の公認候補に選出された。
2012年4月22日に施行された2012年フランス大統領選挙第1回投票で得票率28パーセントを獲得し、現職のニコラ・サルコジを抑えて第1位となったが[1]、過半数を獲得できなかったため、規定により5月6日の決選投票に持ち込まれた。5月6日の決選投票で過半数を獲得し、サルコジを下して初当選を果たした。
2012年5月15日にエリゼ宮で就任式が執り行われ、正式に第24代フランス大統領に就任した[3]。新内閣の首相にはジャン=マルク・エロー社会党議員団長を指名した。また、大統領選挙での公約通り、女性閣僚を34名のうち半数の17名に増やし、大統領と閣僚の給与を30パーセント削減した。富裕層を中心とした増税策を次々と打ち出し、100万ユーロを超える所得のフランス人は75パーセントの富裕税を課されるようになった。これを受けて、実業家や俳優がフランスから他国に移り住む事例が増えている。
失業対策や経済政策を重大な公約に掲げて大統領に当選したが、就任以来フランスの経済は低迷を続けている。財政赤字は公約した国内総生産の3パーセントを超え、失業率も増えて10パーセントを超えている[10]。2013年10月、フランスの調査会社イプソスが行った世論調査では、オランドの支持率は24パーセントであった。これは1996年から調査を始めてからの、歴代大統領の中でも最低である。2014年1月14日には家族手当の原資となる企業拠出金を2017年までに廃止するなど、企業を優遇する方針を発表した。フランスのメディアからは、「それでも社会党政権と言えるのか」「結局サルコジ前右派政権とどう違うのか」という声が出ている。さらに、事業家のみならずサッカーリーグなどから反発を買ったばかりか、税収がはかばかしくなかったために2015年1月1日付で75パーセントの富裕税を廃止した。
2015年1月のシャルリー・エブド襲撃事件や後述の11月のテロ事件の直後には、いずれも一時的に支持率が上昇したが長続きせず、2016年4月には就任以来最低の14パーセントまで落ち込んでいる。同年11月にはパリ同時多発テロ事件を受け、報復としてシリアのラッカでISILを標的とした大規模な空爆を実施した。その後議会で演説し、「フランスは戦争状態にある」と述べ、空爆を強化する方針を表明した。
2017年フランス大統領選挙
2017年フランス大統領選挙への立候補を検討していたが、低迷し続ける経済雇用問題や支持率により社会党内の意見が分かれ、オランド自身も「私が立候補しても力を結集できない」として、2016年12月に任期満了と共に大統領を退任する方針を明らかにした。現職の大統領が2期目の出馬を断念したのは、現在の政治体制であるフランス第五共和政になってから初めてのことである。
退任
2017年5月14日に任期満了で退任した。後任にオランドの側近として大統領府副事務総長、経済・産業・デジタル大臣を務めたエマニュエル・マクロンが就任した。
政策
内政
2012年フランス大統領選挙では、原発依存度を75パーセントから50パーセントに引き下げる公約を掲げた。また2013年5月18日には同性結婚の合法化案に署名・成立させた。
外交
日本
国際連合安全保障理事会常任理事国入りを支持するなど伝統的な両国関係を継承しつつ、大統領就任に当たっては「岐路の日本:信頼関係の再構築」と題する報告書を作成し、前任のサルコジ政権の中国偏重を批判し、アジアにおいて日本を重視して関係を再構築する姿勢を鮮明にした。
2013年6月には大統領として17年ぶりに日本を訪問した。オランドは数人の大臣を含む総勢40人の代表団を伴っており、天皇・皇后・安倍晋三首相などと会談した。
アメリカ合衆国
2016年アメリカ合衆国大統領選挙でドナルド・トランプが勝利した際に「不確実性の時代」の到来との見方を示すコメントを発表した。
マリ共和国
2013年1月にはマリ共和国政府の要請を受けてマリの反政府勢力の拠点に空爆を行い、フランス陸軍も展開した(セルヴァル作戦)。2月2日に軍事作戦が続くマリの首都バマコを訪問して市民向けの演説や軍事施設に激励を行った他、9月19日に新大統領の就任式のため再びバマコを訪問している。
私生活
結婚は1度もしていないが、事実婚関係にあるジャーナリストがいる。また、その前にも政治家のセゴレーヌ・ロワイヤルと事実婚関係にあった事があり、こちらに関しては子供も4人いる。なおロワイヤルはオランドが勝利したサルコジが大統領就任時に戦って破った候補である。