先帝三代の栄光から下り坂へ
嘉慶帝
かけいてい
乾隆25年 十月六日(1760年11月13日) - 嘉慶25年七月二十五日(1820年9月2日))
- 中国清の第7代皇帝(在位:1796年2月9日 - 1820年9月2日)。諱ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。廟号は仁宗(じんそう)。在世時の元号の嘉慶を取って嘉慶帝と呼ばれる。
乾隆帝退位から2年後に白蓮教徒(びゃくれんきょう)による大反乱が起こる、
webより
政治の恐るべき劣化
- 乾隆末期からのワシンを初めとする官僚の腐敗・汚職と言った負の遺産を抱えながらも、ワシン粛清後は宮廷内の混乱を恐れて他の者の罪を咎めず求心力を保った。
- 官僚・八旗の堕落を態度を以って是正できず、即位直後から相次ぐ反乱を起こされたことは減点の対象である。 混乱収拾の為に「己を罪する詔」を発しても効果は薄く、乾隆帝にも責任はあるとは言え、不平分子の相次ぐ台頭を許したことは彼の統率力の限界を露呈しているとも言える。
内乱に次ぐ内乱
- 華々しい親征こそなかったものの、「白蓮教徒の乱」では9年に渡って鎮圧を指示、暴徒沈静に全力を傾けた。
- 続く天理教徒の乱ではわずか80余名に紫禁城内に攻め込まれ劣勢に陥るが、後の道光帝らの活躍もあって鎮圧せしめる。
- 江南で発生した蔡牽・朱濆の乱も鎮定に成功しており、極端に低い数値にはならない。
- 相次ぐ乱の折には幾度是正を試みても改善が見られなかった八旗に見切りをつけ、地方の有力者たちを動員して武装集団を作らせた。これはのちの団練、郷勇の誕生を意味し、八旗に替わって治安維持に役立った反面、地方が豪族化するきっかけとなった。
- 結果論で言えば"その場凌ぎの愚策"との見解も当然だが、反乱が頻発した混迷期にあって、地方ごとで中央の手の届かない部分を守らせることはベターな選択であったこともまた認めるべきであろう。
- 相次ぐ戦乱で国庫がカラになり銀の多大な流出や財政悪化を招き人口増による食料難で喘ぐ農民を更なる窮地に追いやった。
- 総じて清の国力が衰退し始めた時期の皇帝ではあるが、彼一人の責任では有り得ず、時代や「三世の春」による弊害、八旗の弱体化が関わっており、全盛期3代の時代の見えないツケが回ってきたと言え、運に恵まれぬ治世であった。
文化
- 文化面では“乾嘉の学”と呼ばれた考証学が全盛期を迎えていた時代でもあり、国学が大きく向上した時期であった。苦肉の策とは言え、重税を課し臣民を強いているので三世の春と比較され、末端には不評であった。
嘉慶帝の能力
- 親征の経験がほとんどゼロで乾隆帝に対しては頭が上がらなかったことから後世に小心者と揶揄されているが宮廷内の権力闘争を緩和したことからもわかるように、物事に対して慎重であったとも言える。