ドイツ人気質と思われるもの独断と偏見で上げる、
- 『なにかしらの正義・大義』を貫きたがる
- はっきり喋ることを強要される。
- 駄目だというときにはどんな相手でも駄目だという。
- 絶体絶命でも逃げない
- 弱気を助け、強気をくじく
- 自主独立精神
- 忠誠心
- 清貧
- 卑怯者を許さぬ
※解かる方は修正をしてくださいと書いておきます。(私は解からない)
- TVとか昔よりよくでみる『日本人の美徳・・なんたらかんあたら』の様な所とたぶん被るところがあるのだろう。
(というか日本の人がドイツから真似たのか)
- そうような『ドイツ人気質』を養った一つが『プロシア・プロイセン』だと思われる。
紹介
プロイセン(ドイツ語:Preußen、ポーランド語:Prusy、リトアニア語:Prūsija、プロシア語:Prūsa)
- バルト海南東岸の地域。
- かつては英語名Prussiaに基づくプロシア(普魯西)の名称も用いられていた。
領域
- ドイツ帝国(1871年 - 1918年)の東プロイセン(赤)の範囲。藍色はプロイセン王国の範囲
- プロイセン地方の領域は西側はポメラニア(ポーランド名ポモージェ、ドイツ名ポンメルン)でドイツに接し、東はネマン川(ドイツ名メーメル川)を境にポーランドとリトアニアに隣接、ヴィスワ川(ドイツ名ヴァイクセル川)で東プロイセンと西プロイセンに分けられる。
- 東プロイセンの中央には東西にプレゴリャ川(ドイツ名プレーゲル川)が流れ、その河口に中心都市カリーニングラード(ケーニヒスベルク)がある。
- プロイセンの住民のほとんどは第二次世界大戦後に逃亡したり追放されたりしてドイツに移住し、領域はロシアとポーランドに分割されたため現在ではプロイセンという地域名は使われていない。
由来
- プロイセンという名前は、プルーセン人またはプルッツェン人として知られるヴィスワ河口付近に居住した先住民に由来する。
- 民族大移動以降はソルヴ人やカシューブ人のようなスラヴ系諸民族も移住してきた。
- ロシアあるいはルーシの近くを「プロシア」と呼んだことから来ているとも。
キリスト教伝来
キリスト司教アーダベルト殺害される!!
- 977年プラハのアーダルベルト司教(聖アーダルベルトまたは聖ヴォイチェフと呼ばれる)によってこの地域にキリスト教が伝えられたがプルーセン人は服さず、アーダルベルト司教は997年4月23日斧で打ち殺された。
ボレスワフ1世
- ピャスト家のポーランド大公ミェシュコ1世とその子でポーランド王国初代国王ボレスワフ1世は神聖ローマ皇帝オットー1世やその後継者たちと封建的主従関係を結んだことによりオーデル川(オドラ川)以東の支配権を得たが、プロイセンはその後も長くキリスト教化されなかった。
- アーダルベルトの遺体はボレスワフ1世がプルーセン人に大金を支払って買い取り、当時のポーランド王国首都ポズナニの郊外の街グニェズノに設置されたポーランド大司教座の大聖堂内の礼拝所に安置された(アーダルベルト司教は故郷のプラハ貴族層と折り合いが悪かった。
- そのためにプラハを離れたのであるがのちにプラハの貴族たちがポーランド王国に対し遺体の「返還」を要求してきた。
- 当時のポーランド王は心の中ではプラハの貴族たちの要求に呆れ返っていたが表面上は快く応じ別人の遺体を聖アーダルベルトのものだとしてプラハに渡した。
- そのためグニェズノにあるアーダルベルトの墓所とプラハにあるアーダルベルトの墓所の2か所に、アーダルベルトのものとされる頭蓋骨が合計2個あり、グニェズノのものが本物だとされている)。
『ドイツ騎士団』と『ポーランド王国』
- 1217年マゾフシェ侯コンラート1世は異教徒プルーセン人の平定と教化を企てたがローマ教皇の呼びかけにも周辺の諸侯は応じずクルムラントの領有権と引き換えに協力を申し出たのは当時ハンガリーにいたドイツ騎士団であった。
ドイツ騎士団北伐
- 1226年総長ヘルマン・フォン・ザルツァに率いられたドイツ騎士団による北への遠征が始まる。
- この征服戦争は北方十字軍とも呼ばれ改宗に応じない先住民は容赦なく殺戮されるという凄惨なものだった。
- この人間狩りは次第に商業主義的性格を帯びていき、ドイツ各地の王侯貴族の子弟をプロイセンに呼び寄せて人間狩りと血みどろの虐殺を楽しませるツアー旅行と化しドイツ騎士団にとって主な収入源であった。
ちょ・・・ちょっとまて『虐殺ツアー旅行』だとw
- 1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の発したリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ。
- この金印勅書を根拠として1230年に結ばれたクルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認めたため、ドイツ騎士団はプロイセンの領有権を確立ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラードで、後にプロイセン公国、プロイセン王国の首都として発展した。)やトルン(トルニ)、マリエンベルク(マルボルク)、アレンシュタイン(オルシュティン)などに城を築いて拠点とし、ダンツィヒ(現ポーランド領グダンスク)をはじめとした都市からの税収などをもとに騎士団領が発展していった。
-残忍な征服者に対し先住民は頑強に抵抗し1260年に大反乱。
- 1283年に至ってなお反乱が見られた。
- だがドイツ騎士団の軍事的優位は動かしがたく14世紀前半までにプロイセンの大半はキリスト教化された。
文字を持たなかった初期ドイツ人
- 文字を持たなかったプルーセン人は文字での記録を残さず生き残った人々も次第にドイツや周辺地域からの移民に同化されたため今ではこれら先住民のことはドイツ騎士団が作成した原住民語の記録がいくつか残っているほかは史料が少なくほとんど分からない。
『騎士団用語大管区・・・』
- ドイツ騎士団領プロイセンは20の大管区に分割されており、各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従って統治するという中央集権的で能率のよいシステムに基いて運営されていた。
- 騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったがドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会してきたため人材は豊富で移民の受け入れも盛んだったためそこからの収益を基にして14世紀中葉には騎士団領は繁栄の頂点にあった。
- しかし一方、ドイツ騎士団は異教徒に対する残酷の手を緩めず当時異教徒であったリトアニア部族国家はキリスト教化を条件にポーランド王国との同盟を持ちかけてきた。
- 当時のローマ教皇もプロイセンにおけるドイツ騎士団の非行を耳にし、調査を開始した。
- ポーランドもピャスト朝の男系が途絶えたときであり、また1306年ごろからドイツ騎士団との間で領土やポメラニア遠征費用を巡って紛争の状態にあった。
リトアニア公王ヨガイラ
- ポーランド・リトアニア双方の貴族や有力者が会議を開き、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公のヨガイラが結婚して両国が連合することが決定された。
リトアニア大公国、
- ヨガイラはキリスト教の洗礼を受けて自称をポーランド風のヤギェウォとしてリトアニア部族国家をリトアニア大公国とし、ヤドヴィガと結婚してヴワディスワフ2世(ロシアに出てくるなこの名前・・)としてポーランド王に即位しヤドヴィガ女王との夫婦共同君主としてポーランド王国を統治することとなった。
ヤギェウォ朝
- ヤギェウォ朝の成立である、北方十字軍の前にはポーランド王国と対立していたプロイセンの原住民であるプルーセン人もポーランド王国とリトアニア大公国の力によってドイツ騎士団の恐怖支配から解放されること望んだ。
- 1410年、ポーランド・リトアニア連合はグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を討った。
人間狩りや殺戮を禁止させるw
- 翌1411年に結ばれた第一次トルニの和約でドイツ騎士団は領土の一部を失い、多額の金銭を支払い武器を引き渡し、以後ポーランド王国に反抗しないことを約束させられたうえ、プロイセンで行っていた人間狩りや殺戮という残虐行為を禁止させられた。