概要
三瓶明雄は「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画の一つ、DASH村にて長年農業指導者として携わってきた人物。
視聴者からは「六人目のTOKIO」と称され、親しまれた。
1929年11月27日生まれ、2014年6月6日死去。
福島県出身。
1950年頃に津島村(現在の双葉郡浪江町※の西部にあたる)に開拓農民として入植し、以降長年にわたってこの地で農業に従事していた。
妻と息子の鉄雄は、どちらも本人より早く亡くなっている(鉄雄は番組出演経験もある)。このため、後述する葬儀の際には息子の妻が喪主を務めたことが明かされている。
※番組発足当時はDASH村の位置は公開されておらず、茅葺のDASH村役場が放火と思われる火災に見舞われたのが全国に報道されたため村の位置が判明してしまった。その後番組から正式に発表されている。
出会ったきっかけと活躍
元々DASH村の企画が始まった当初、農業について右も左もわからないTOKIOのメンバーに
JA(農業協同組合)が彼を紹介したのが出会いのきっかけであった。
なお、本人は当初裏方での指導だと考えていたため、実際の放送で出演者として大きく取り上げられたことに驚いたという。
DASH村の開拓に関して一番尽力し、稲作や畑作以外、動物の飼育などにも様々な知識を有しており、常にTOKIOとDASH村をけん引してきた。
体力的な面でも、当時まだ30歳そこそこの城島とも張り合えるほどであった。
温厚で明るい性格。茶目っ気のある人物であるが、中途半端なことを嫌う生真面目なところがあった。
口癖は「まだまだ」。これには「物事は常に新しくなっていくので、現状に満足して停滞してはいけない。」という自身への戒めを込めたものということが自著などで触れられている。
メンバーとは親子ほどの年が離れてはいるが、TOKIOからすれば「頼れる兄貴分」であった。
2011年には、東日本大地震による、福島第一原子力発電所事故の影響で、本人の住居およびDASH村のある地域が計画的避難区域(のちに帰宅困難区域に変更)となったため福島市内に避難。
以降、後継企画となる「出張DASH村」に定期的に出演しており、2014年1月の放送までメンバーと共に全国を回っていた。
TOKIOが贈った歌
明雄さんが77歳の誕生日を迎えた際、山口と長瀬が歌を贈っている。
僕らのオヤジは三瓶明雄と言います
明雄の口ぐせ「ダメだこりゃー」
ありがとう ありがとう
いつまでも素敵な明雄でいてね
いつまでも・・・
突然の訃報
2014年6月6日、地元紙の福島民報などに訃報が掲載された。
享年84歳。
なお、当初は全国区のニュースで報道がなかったため、Twitterで地元住民などにより噂という形で広まっていた。その後、全国区のニュース番組やネットニュースで報道され、噂が事実であると確認された。
葬儀にはメンバーを代表して城島が出席している。
なお、2013年12月ごろから体調を崩して伊達市内の病院に入院しており、入院中に城島と山口が慰問に訪れたことが2014年8月放送の『24時間テレビ』で明かされている。
追悼
死の直後となる6月8日の放送分の「ザ!鉄腕!DASH!!」の最後の約1分半に、三瓶氏の死を弔うVTRが流され、山口がメッセージを読み上げた。
明雄さん、僕達は正直、まだ心の整理がつかずにいます。
本当はまた今年の米を一緒に収穫したかった。
もう会えないなんて、今は信じることができません。
明雄さん、僕たちは明雄さんに教えてもらった、
自分の手で作り、育てることの素晴らしさや大切さをずっと忘れずにやっていきます。
だから僕達がしっかりやれているか見守っていてね。
そして天国で少しはゆっくり休んで下さい。
TOKIO
三瓶明雄さんご逝去について
ザ!鉄腕!DASHのコーナー「DASH村」の農業指導者としてご出演して頂いていた
三瓶明雄さんが、2014年6月6日の朝、ご逝去されました。84歳でした。
自分の手で作り、育てることの素晴らしさ、厳しさ、そして大切さを
TOKIOをはじめ我々スタッフ一同は、明雄さんから教わりました。
謹んでご哀悼の意を表すとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
ザ!鉄腕!DASH!!
という追悼文が掲載された。
亡くなった後も番組には過去VTRなどでたびたび取り上げられており、本人以外に農業指導・作業補助に入っていた地域住民らも「新男米」→「ふくおとこ」関係の企画などで出演を続けている。