概要
原虎胤は1597年に下総国の千葉氏の重臣(原氏は事実上の主家を乗っ取っている)の長男あるいは次男として産まれる。幼名は平三とされる。
この16世紀の房総半島は様々な豪族や大名が抗争を繰り広げており、千葉氏や原氏と敵対する、真里谷武田氏や子弓公方の足利義明が伊勢宗瑞の援助を受けて優勢に立ち、原氏も1517年に居城が落城したことにより、没落する。
虎胤は諸国を放浪していたが、甲斐国に立ち寄った際に武田信虎に仕官する。
1521年に今川家の重臣福島某という者を総大将に今川方が、武田側の約5倍もの兵力で攻め込んで来た横田河原の合戦では、信虎は荻原常陸介や板垣信方といった武将と共に奇襲を行い、その中で虎胤は福島を討ち取るという武功を上げた。
恐らく、この戦いの影響で虎胤は信虎の目に止まり、信虎から虎の字を使うのを許され虎胤と名乗ったとされる。また、他国衆足軽大将になったのもこの頃とされる。
信虎は短気で重臣であろうと気に食わない家臣を成敗するという一面があったが、どういう訳だかはわからないが非常に虎胤を気にいっており、よく酒宴を開いたり、虎胤の意見をよく聞いたという話があるが、これは後世の創作の可能性が高い。
1541年に信虎の嫡男晴信が重臣らと共謀して、信虎を駿河の今川義元の場に追放して、家督を奪い取るという事件が発生。この時の虎胤は信濃で戦をしていたが、信虎が追放されたと聞くや(虎胤は信虎派の家臣と見なされており、計画実行の為に除外されていた)、
甲斐に戻って激しく板垣らに怒りぶつけたとされる。しかし、晴信は信虎の時と変わらず虎胤を厚遇した為、虎胤は引き継ぎ武田氏に使える。
その後も、小笠原氏や佐久の反武田側との戦いで目覚ましい武功を上げていき、上田原の合戦では武田軍の危機を救う等の貢献を果たした。
しかし、1553年に晴信が宗教の信仰に関する政策を出すと虎胤は武田氏を出奔し、北条氏に使える。が、1554年に
武田─今川─北条の間に甲駿相三国同盟が成立すると帰山し、罪を許されすぐに復権したという。
1559年に晴信が信玄と出家すると、長坂虎房や真田幸隆、山本勘助ら共に出家、清岩という出家名を名乗るようになる。
川中島の戦いの1年前のそ1560年に北信濃での城攻めの途中で、武功を上げるも重症を負って、高齢なこともあり引退。
1564年68歳で病死。足軽100人を率いて最低でも生涯38回の合戦に従軍、受けた傷は全身に53箇所、記録に残るだけでも討ち取った首の数は60を越え、単純に殺した敵はそれ以上と考えられる。
戦国大戦
『味方に勇気を、敵には慈悲を』
武力7、統率7、2コストの槍。所属は武田家。
特技は攻城。
見た目は傷だらけの渋くてカッコイイイケメンと言った感じで台詞も情け深い豪傑味のあるものとなっている
高く武力統率共にバランス型で混戦や部隊同士の押し合いに強いが、虎胤以外にも武田家の2コストには優秀な槍は多くおり、ライバルも多い。しかしながら、武田家の武将で特技攻城を持つ武将では長い間最低コストであったため、常に安定した使用率を維持していた。
虎胤の計略は不屈の夜叉美濃。士気6消費とやや重く、他の自身の強化系と比べるとずば抜けた破壊力はないが、持続時間が長い70%の兵力回復と武力8上昇の効果は高く、
もともと混戦や部隊同士の押し合いに強い虎胤が落とされにくくなるのだから、状況次第は強力な計略になり、強引に虎口に突っ込み、城門前に居座ってしまえば初代鬼美濃に恥じない戦いぶりを見せてくれる。
『漢の戦を見せてやろう』