概要
昇る隼
帝国陸軍は九七式戦闘機(キ-27)を1937年(昭和12年)に採用し、日中戦争で運用していたが、性能面でさすがに限界を感じ、新型機の製作を模索するようになる。同年12月には早くも中島飛行機にキ43の試作内示が行われ、1939年(昭和14年)末の完成を目指して開発が始まった。設計主務者は小山悌、また研究課空力班からは戦後に国産ロケット開発で大きな足跡を残すことになる糸川英夫技師が設計に協力している。設計の主なコンセプトは九七式を踏襲したものであり、翌1938年(昭和13年)12月に試作1号機が完成。その後改修を繰り返し、1941年(昭和16年、皇紀2601年)に正式採用された。
烈日の隼
1941年6月から8月にかけて一式戦に全機機種改編した第59戦隊所属の9機が、漢口から重慶までの長距離進攻に参加、これが一式戦の初陣となる。同進攻戦では迎撃機が現れず空戦は起こらなかったものの、一式戦の長距離航続性能を実証した。以降、大東亜戦争でも卓越した戦闘能力と扱いやすさを活かして多大な戦果を挙げており、名実ともに帝国陸軍の主力戦闘機となった。また軍神加藤建夫少将を始め、多くのエースを輩出している。
落日の隼
その後も隼は運用され続けたが、性能面や連合国側の戦闘方法が変わった事もあり、大戦末期には次第に旧式化が顕著になってしまった。
やがて大戦末期には特攻機として、知覧から多くの若者を死地へと運ぶようになる。
かつての南方前線での華々しい活躍と比べると、余りにも悲しい最後だった。
その後の隼
隼は大東亜戦争中「友好国」であった満州国軍やタイ王国軍に多数供与されており、両軍では連合軍機を相手に幾度となく戦闘を行っている。また外地で終戦を迎えた隼はフランス軍とインドネシア軍に接収され、インドネシア独立戦争において大きな役割を果たした。
また中国でも国民革命軍と中国人民解放軍がともに日中戦争以来捕獲した隼を国共内戦において使用していた。
名称
略称は一式戦、一戦、ヨンサンなどと呼ばれていた。愛称の隼は、当時マスコミが比喩表現として使用していたものを、航本報道官の西原勝少佐が一般国民に対する宣伝として採用したことに由来する。これは日本軍の軍用機として初めての事であり、以降、陸海軍同様軍用機には愛称が付けられることが定着した。また、連合軍のコードネームは「Oscar(オスカー)」。