概要
このことわざには「誰かのためにこれから舗装する道なのか、自分が舗装してきた道なのか」で二通りの意味になる。
1つ目は、良かれと思って行ったことが悲劇的な結果を招いてしまう事。
または、悲惨な出来事の発端となる出来事が皮肉にも善意の行いであることを言う。
要するに「大きなお世話」。
2つ目は、善意を持っていても、実行が伴わなければ、いずれその人は地獄へ落ちるだろうという戒め。この場合、舗装されてるのは「これから行く道」ではなく「今まで来た道」を指している。
「天国をめざして信心する人は多いが、そのための善行を続ける人は少なく、結局は地獄へと進むことが多い。地獄への道には、そうした人々が心の中から落としてしまった善意が降り積もっているのだ。」
こちらの意味の場合は「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」(Hell is full of good meanings, but heaven is full of good works)と云う言い方も有る。
つまり、一つ目は「善行に見えても余計な事はするな」、二つ目は「善意は善行につながらないと意味がない。積極的に善行を行なえ」というほぼ正反対の意味になる。果たして本当に「余計なお世話」なのは、どちらの解釈をやった側か?
原語では“The road to Hell is paved with good intentions.”
現在、一般には1755年に史上初の本格的な英英辞書を一人で完成させたことで有名な、イングランドの文学者サミュエル・ジョンソンの言葉として引用されるが、"The road to"の部分が無い、
つまり「地獄は善意で舗装されている」と訳せる類の警句は、彼以前にも他の学者や宗教家など複数名が遺しているという研究がある。
Pixivにおいては2つ目の意味は絵で表現しづらいせいか、1つ目の意味で使われているのがほとんどのようである。
英語版wikipediaには1.2両方の意味が掲載されている。
参照:The Samuel Johnson Sound Bite Page
ネットスラングとして
一つ目の意味に近いが、人を地獄に落とすために善意でおびき寄せる、善意のふりをして悪行を行う、等の意味で使われることがある。
邪心を持った時点で善意でないので論理的には矛盾しており、辞書で扱われることもない誤用であるが、「宇宙刑事ギャバン」のオープニングテーマにもあるように「悪い奴らは天使の顔して心で爪を研いでいるものさ」と言った経験則に合致しているため、好んで使われる傾向にある。
また一部の界隈では、どういうわけかこの諺が「地獄への道は善意で舗装されていて、中央分離帯には線路が敷いてあって、5分に1本千里中央行きの電車が来る」と妙な方向に発展して用いられていることがある。地獄行きにされた当該電車や地獄扱いされた千里中央駅にとっては風評被害もいいところである。
関連タグ
余計なお世話(1つ目の意味に近い)
スラックティビズム(2つ目の意味に近い)