1930年代末に行われた、大日本帝国への経済制裁の総称。
アメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ領東インド(蘭印)(Dutch East Indies)の頭文字をとったとされ、この呼称はあくまでも日本における呼称である。
初出についてははっきりしないが、1941年の開戦直前にプロパガンダ的に用いられ始めたのは確認されている。具体的に何を以って「包囲」を行ったとするのかもあまりはっきりと定義はされていない。
実際のところ積極的に敵対的な外交方針を取ったのは、中国権益を狙って日本と対立関係にあった英米ぐらい。
日本と蘭印の関には30年代まで大きな問題は生じていなかったが、40年6月のドイツの侵攻によりオランダ政府はイギリスに亡命、本国がイギリスの庇護下に入ったことにより蘭印も徐々に英米寄りの対応を取らざるを得なくなる。
さらに9月には日独伊三国同盟の締結により、蘭印の連合接近は加速した。
それでも即座に制裁に参加することはなく、英米の圧力を受けつつも日本との貿易関係を保とうと交渉を続けたが(日蘭会商)、41年6月には日本側から交渉打ち切りを宣言、オランダは否応なく英米と協調した行動をとらざるを得なくなった。
中国とは37年以降全面戦争中であるため制裁も何もあったものではない。
このようにABCD各国との敵対関係は、何らかの意思に基づいて計画的に発生したものというよりも、日本側の行動とそれに対するリアクションによって結果的に生じた勢力関係である。
これを敢えて『ABCD包囲網』と呼称したのは、プロパガンダを目論んだ部分が大きいと考えられる。