概要
飯沼慾斎(1783-1865)の『草木図説』と並び称せられる江戸時代末に作られた二大植物図譜のひとつで、江戸下谷生まれの幕臣岩崎灌園(1786-1842)の著作。
本草図譜前史
元々日本では、明治時代まで、薬草を含め薬になる天然自然の産物を研究する学問を「本草学」といった。
平安時代にもそうした本草書はいくつか刊行されたが、当時のものはいわば薬草のリストに近いもので、図版は少なかった。
江戸時代初期の本草学は明の李時珍の『本草綱目』を中心とした文献学・解釈学であった。日本の薬用植物ならびに動物を中国の本草書に記載された薬草に当てようとしたのであるが、当時は中国の植物相や動物の生息が日本と異なることが全く知られていなかった。
そこで、宝永五年(1708 年)に貝原益軒は原著から日本には産しない動植物、ならびに薬効の疑わしいものを除外して「大和本草」を著した。
益軒以後、多くの本草学者が、山中を巡り歩いて薬効のある植物を発見することや今日の民俗植物学的資料の収集に努めた。
本草図譜の特徴
時代は下って、岩崎灌園はそれまで流通している本草書の図が欠落しているものが見られることや、解説が正確さに欠けるものが多いことを憂い、自らの手でより正確な図譜を刊行することを決意した。
自邸で栽培したものや、各地の野山を巡り歩いて採集した野草を写生し、彩色した。図版の中にはいわゆる日本画風の図版と、それとはタッチの異なる線画で描かれて彩色された、当時日本には産しなかった植物の図もある。これらは、ドイツの薬剤師ならびに植物学者であるヨハン・ヴィルヘルム・ヴァインマンの『薬用植物図譜』(Phytanthoza iconographia、全8巻)から引用したものである。
当時、洋書からの図の転写は多くの蘭学者からの批判の的となったが、これには岩崎の「全世界の薬用植物を収録する」という意図やその工夫が見られる。
そうした工夫は、植物の図の横に記載されている和名や漢名、オランダ語での呼び名などにも見られる。
また、海藻について解説する巻には、現在では動物の一種であることがわかっているサンゴの類いも植物とみなされ収録されている。
巻数は全96巻とされるが、1~4巻は原著の『本草網目』が植物以外の薬の項目であるため、岩崎の目的である植物の解説は5巻から始まる。よって実質全91巻である。
岩崎は原著に従って植物を以下のように分類した。
以下の巻数のうち、44巻と96巻は解説のみで図板はない。
5~8巻 山草類
9~12巻 芳草類
13~20巻 湿草類
21~24巻 毒草類
25~32巻 蔓草類
33・34巻 水草類
35~37巻の途中 石草類
37巻の途中・38巻 苔類
39巻 雑草
40~42巻 穀類
43巻 菽豆類
44巻 醸造類(穀物の加工品)
44~60巻 菜部(野菜やキノコ、食用にされる海藻類など)
61~76巻 果部
77~81巻 香木類
82~86巻 喬木類(高木)
87~92巻 灌木類(低木)
93巻 寓木類
94巻 苞木類(竹や笹の類)
95巻 苞木類・雑木類
96巻 服帛類・器物類
いずれの巻も、著作権がすでに失効しているため、国立国会図書館デジタルコレクションからの閲覧が可能であるし、気に入った図版をダウンロードすることができる。
当時は全巻を世に公表する予定であったが、経済状況の状況が思わしくなかったことで計画は頓挫し、結局は最初の数巻が刊行され、残りは岩崎の同業者や知人に配布されたのみであった。岩崎本人は76巻めの完成後に病没したが、長男が出版の作業を引き継ぎ、1850年に全巻が完成した。
明治時代にも復刻版が販売されたが、最初の「山草部」が復刊されたのみであった。しかも、着色画ではなく、いわゆる線画である。
1921年(大正9年)には、彩色版の全巻が復刻され、世に出回った。それらは原著とは異なり、学名が全巻の巻末に追加されている。こちらも国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能だが、惜しむらくは、電子化されるに当たって図版が全てモノクロ化されてしまっている点である。
着色された図版はアメリカの電子図書館サイト「Hathitrust」で閲覧可能だが、資料をデジタル化する機械の関係で一部がモノクロ化されており、完全ではない。