解説
生没年:不詳(1142年〜1218年という説がある)
出身国:下野国
肩書:鎌倉幕府常陸国守護、13人の合議制の宿老
下野国の武士の家の子に生まれる。源頼朝の乳母である寒河尼は姉に当たる。
青年期の記録が一切ないために詳細は不明だが、『保元物語』には「下野国の八田四郎が源義朝(頼朝や義経の父)の郎党として出陣した」とあり、この「八田四郎」が知家でないかとされる。
この後、常陸国新治郡八田(現・茨城県筑西市八田)に本拠をおいたため、こんにちの八田知家という名で知られる。
治承・寿永の乱が勃発すると知家は治承四年(1180年)に挙兵した頼朝に従うが、一時的に記録が消えて動向不明となっている。
再び記録に見られるのは寿永二年(1183年)2月の野木宮合戦の頃で、頼朝の叔父で平家側にいた志田義広を、頼朝の忠実な家臣であった小山朝政とともに打ち破っている。
それからしばらくは記録から名前が消えたり現れたりしているが、元暦元年(1184年)6月には頼朝の異母弟である範頼とともに平家討伐の兵を西に進めている。
その翌年の元歴2年(1185年)には頼朝を通さずに朝政らと朝廷から右衛門尉の官職を勝手に賜っていたため、頼朝から「西国を鎮めに行く途中に京都で官職を受けるなどということは、のろまな馬が道草を食っているのと同じだ」と叱責されたがすぐに許され、同年には常陸国守護に任ぜられた。これ以降も、京都から下ってきた検非違使の宿所が知家の家に指定されたり、さまざまな儀式の供の一人として登場したり、また文治四年(1188年)12月には、朝廷の使者が源義経の追討に関する院宣を奥州藤原氏へ届ける途中で鎌倉に寄り、その接待を知家が命じられているなど、必ずしも大役というわけではないが、頼朝からの信頼が厚かったことを示す記録が残っている。
建久元年(1190年)4月11日には頼朝の長男の頼家の初めての笠懸が行われたが、この日知家は大幅に遅刻してしまい、頼朝から大目玉を食らう。そこで知家は遅刻したことを謝罪しつつも、笠懸の進行に置いて的確な助言を行ったため、たちまち頼朝の機嫌が直ったのであった。
建久四年(1193年)の曽我兄弟の仇討事件では、「頼朝様が暗殺された」という誤報が飛び交うなか、多気義幹という御家人を葬り去るため一計を案じた。まず「知家が義幹を討伐しようとしている」という噂を流し、義幹に防備を固めさせることとなる。
つまり「頼朝の安否が不明な状態で地元に戻っている御家人が鎌倉に来ず『何故か』武装を強化し始めた」という状況を作り上げて、多気氏をつぶす大義名分を打ち立てたのである。
とはいえ、さすがの頼朝もこの一件を怪しんで知家に尋問するが、「自分は義幹殿に『一緒に鎌倉に行きましょう』と誘いましたが、義幹殿は武装して館に立て籠もっていました」と、自分が義幹を焚き付けたことは隠して報告し、義幹が本領没収となったことで、知家の計画は成功した。
正治元年(1199年)5月7日には頼朝の次女で、元々病弱であった三幡の病状が思わしくなくなると、京都から医者を呼び寄せ、医者の賢明な治療によって一時は小康状態に入るものの、再び症状が悪化して、結局三幡は数え14歳でこの世を去っている。
頼朝の急死後は「13人の合議制」の一員となって政務につく。
建仁3年(1203年)6月23日には頼朝の異母弟・阿野全成を斬首している。これは、北条氏と共に反頼家派を形作っていたため、先手を打って北条氏に対抗しようとした頼家が、知家に命じたものとされる。一介の醍醐寺の僧侶にすぎない男が北条家に接近したことで、頼家の怒りを買い、頼家は全成の処刑を知家に命じた。
これ以降、知家に関する記述が激減して、建暦三年(1213年)12月1日の火事で知家邸も被害に遭ったという記録や、承久三年(1221年)の承久の乱では後方での指揮にあたったという記録が残るのみであると言っても過言ではない。
ただ、知家の没年を建保六年(1218年)とする説もあるため、承久の乱では後方での指揮にあたったという記録は記憶違いか捏造であるとされている。