ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

魏志倭人伝の編集履歴

2012-06-03 15:08:50 バージョン

魏志倭人伝

ぎしわじんでん

中国の歴史書『三国志』魏書「烏丸・鮮卑・東夷伝」倭人条のこと。戦後古代史研究に猛威をふるった。

概略

著者の陳寿は西暦233年にに生まれ、蜀の滅亡後に、蜀と並び立っていたもまたに王朝交代して、学才を買われ晋王朝に仕えた人物である。

陳寿は前代の魏の諸資料を利用できる地位にあり、西暦285年に『三国志』65巻を撰述した。


その中に、魏王朝と関係のあった諸種族の記録があり、そのひとつ「東夷伝」(東の野蛮な国の言い伝え)の中の「倭人条」を、『魏志倭人伝』と称している。

それは、大部の中の一冊の、そのまた一部であり、著者は素材としていくつかの史料を用いているらしい。

最重要のものは魚豢の『魏略』であるが、その完本は現存しておらず、魚豢が依存したその先の史料は全く不明である。通説では、『魏志倭人伝』は『魏略』を基礎にして書かれたとされる。

もう一つは、魏から日本(倭と蔑称された)に派遣された使節の帰国報告書が当時利用できたのではないかと推測される。西暦240年に梯儁、西暦247年に張政がそれぞれ日本を訪れており、後述する「邪馬台国」への行程や「卑弥呼」の伝聞記事は、この2人に負っている可能性は高いが、この2人は「邪馬台国」を訪れたわけでも日本列島を旅したわけでもなく、不自由な言語で、おそらく通訳を介して、北九州の日本人官吏から聞いた国内事情を記述したことであろう。

三番目に、難升目と名づけられた日本人が魏の時代に洛陽に使した際、魏王朝からの問いに対して答えた応答内容が、証拠はないが当時はまだ記録として残っていた可能性がある。


『魏志倭人伝』はいくつか互いに無関係な文書が、ただ無造作に糊づけにして並べられたような無責任なもので、日本を見下しつつも官僚の作文のような殺風景さである。

日本人の習俗や社会に関する部分は、中国の江南地方の古記録によく似ているので疑問が出されており、男子はみな顔や体に入れ墨しているとか、樹皮布を頭に巻きつけているとか、婦人は中央に穴をあけ頭を貫いて着る衣をかぶっているとか、朱丹をその身体に塗るとか、いずれも南方系の民族を髣髴とさせる。

昔からの中国人の固定観念をただ書き並べているとも言えるし、地理的に日本列島を南の方に位置付けていて、江南の記録を無造作に用いているとも言える。


『魏志倭人伝』の文献としての信用のなさとあいまって、いずれにしても本当のことはよく分からないのである。

該資料は中国の「正史」であるが、西暦1735年に書かれた正史『明史日本伝』ですらあまりに不正確な内容であり、それより1500年も前の『魏志倭人伝』は、「歴史資料」に値しない。

そもそも同時代者の反対証言を欠き、距離も遠く、内容の豊かさもなく、とうてい一級史料とは呼べないのが実情である。

しかし日本においては戦後の特殊事情から、日本の歴史につながる『古事記』『日本書紀』の日本神話が、内容的史料価値の高さに関わらずあわただしく否定されてしまったため、代わりに『魏志倭人伝』の外国神話によって、日本史の始原をむりにでも描き出そうとする錯誤に陥った。

しかしはっきりとしていることは、『魏志倭人伝』は、また聞きを伝え書きしたなんらかの記録を、「目撃者の証言」として歴史家が部分的に採用し、それがテキストの中のどこかに投げ込まれているらしい、ということがやっと言える程度である。


記紀神話と魏志神話



関連タグ

邪馬台国 卑弥呼 中国 神話

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました