ニュースピーク
にゅーすぴーく
「僕たちは、言語を破壊しているんだ」
――サイム(Syme)
概要
以下、翻訳や引用は田内志文訳版(2021年)に準拠する事とする。
「ニュースピーク」(Newspeak)とは、ジョージ・オーウェル作のディストピア小説『1984年』に登場した人工言語である。
かつてイギリスと呼ばれた地域を支配する全体主義国家オセアニア(Oceania)が「イングソック、つまり英国社会主義のイデオロギー的必要性に応じて」開発した、オセアニア国の公用語であった。
現実の英語を基に、不必要な表現(不規則活用や、意味が曖昧だったり既存の単語と意味が重複している単語など)を削減して合理化を図った物であったが、その実態は言語を通して「政府にとって都合のいい情報や思考だけを受け入れるようにする」「国民に反体制的な思考をできなくする」という目的の洗脳・愚民政策の一環として生み出された代物で、実際に政治的・哲学的・文学的な意味合いを持つ単語を中心に毎日のように語彙が削減されていき、単語の語源を把握できないほどにまで極端に短縮した略語を大量に使用するなど、我々が知る英語とはかけ離れた言語であった。
これにより、ニュースピークを話す国民は思考するよりも前にガァガァと党のスローガンをひたすら叫ぶ事しかできず(これを「アヒル語り〈ダックスピーク、Duckspeak〉」という)、思考できてもそれを言語化する事はできず、書けたとしても小学生並みの感想レベルの幼稚な文しか書けなくなる、という恐ろしい状態に置かれたのである。
作中の舞台となる1984年時点では母語として使用した者は皆無に等しく、完全にニュースピークのみで書かれた書物は政府刊行物や『タイムズ』紙などごく一部のメディアに限られていたが、オセアニア政府は辞書第11版でニュースピークを完成させ、2050年までに既存の英語(オールドスピーク〈Oldspeak〉、旧語法)と完全に代替させる事を目標に普及を進めていた。
オールドスピークの廃止がそこまで遠い未来に設定されていたのは、過去に書かれた全ての文献・記録や文学作品のニュースピークへの翻訳(無論原文そのままに翻訳する事はない)が極めて膨大な作業であった事による物であった。
特徴
文法
以下、ニュースピークの文法的特徴の具体例を列挙する。
- 形容詞及び副詞はそれぞれ「-ful(~に満ちた)」「-wise(~方式で)」の2種類の接尾辞を付ける事で成立した。例えば名詞の「speed(速度)」を形容詞にしたければ「speedful(速い)」にし、副詞にしたければ「speedwise(速く)」にすればそれだけで事足りた。
- この為、ほぼ全ての形容詞・副詞が消された。「good(良い)」「strong(強い)」「big(大きい)」などの一部の形容詞も残されたがその数は非常に少なかった。
- あらゆる単語は接頭辞を付け加える事で意味を自由に変化させる事ができた。例えば「un-(否~)」を付ける事で対義語とする事ができ、程度の度合いは「plus-(加~)」「doubleplus-(倍加~)」を付ける事で強調する事ができた。
- この為、「good」の真逆の意味の単語を作る際は「ungood(否良い)」となり、“もっと良い”という状態を強調する場合は「plusgood(加良い)」「doubleplusgood(倍加良い)」となった。
- 逆にこうした接頭辞で事足りるという事で対義語や類義語などはことごとく抹消された。「good」の対義語である「bad」や類義語である「amazing」「awesome」などの単語は全て存在しなかった。
- あらゆる単語はごく一部の例外を除いて規則的に単純に変化した。その為、不規則な活用はほぼ存在しなかった。
- 例えば動詞においては、過去形・過去分詞形は全て単語の末尾に「-ed」を付けた。例えば「steal(盗む)」の過去形は「stealed(本来はstole)」になるし、「think(考える)」は「thinked(本来はthought)」になった。
- 名詞では複数形は「-s」「-es」のみで表された。「man」「ox」「life」の複数形は本来の英語では「men」「oxen」「lives」になるが、ニュースピークでは「mans」「oxes」「lifes」となった。
- 形容詞の比較級・最上級はそれぞれ「-er」「-est」のみ。「good」の活用は本来「good, better, best」であるが「good, gooder, goodest」となった。「more」「most」などイレギュラーな活用は勿論削除された。
- 逆に、代名詞(I, he, sheなど)・関係代名詞(that, whatなど)・指示代名詞(this, thatなど)・助動詞(can, could, willなど)には不規則な活用が許容されていた。これらはいずれもオールドスピークの用法に基づいて用いられた。
- ただし語彙の削減はここにも及び、「whom(whoの対格・与格形)」は不要な物として排除されたし、「shall, should」は意味を「will, would」に担わせる形で削除された。
以上に上げた特徴は、いずれも発音の容易さや語呂の良さを最優先した物であった。故に発音しにくい単語、聞き間違えやすい単語は必要に応じて語形を変化させるなど、ニュースピークの原則の範囲内で任意に調整する事が認められていた。
語彙
ニュースピークの語彙には後述する「B語彙群」を除き、政治的・哲学的・文学的な意味を合わせ持つ単語が存在しなかった。削除を免れた単語も、同様の意味合いは徹底して削除された形で存在していた。
例として「free(自由、含まない)」という単語は「自由」の意味が削除され、「~がない、~を含まない」という意味しか持たなかった。これは勿論、「自由」という意味自体がイングソック体制とは相容れないからであった。
その最大の特徴は、全ての品詞が完全な互換性を備えている、つまりあらゆる単語はほぼそのままの形を保ったまま名詞・動詞・形容詞・副詞に転用できた事だろう。「think(考える)」という単語はそのままの形で「思想、思考」を表す事ができた(これに該当する英単語は「thought」である)。
この原則に語源などが考慮される事はなく、例えばある名詞が特定の動詞と同じ性質のニュアンスを持つ場合は、例え両者に語源的な繋がりがなかったとしても、その名詞は動詞として代用する事も可能だった。その典型的な例を挙げれば、「cut(切る)」という単語は存在せず、代わりに本来名詞である「knife(ナイフ)」を動詞化する事によって表した。この理由は無論、それだけで意味が十分に補えたからだった。文に適用するなら“I knifed a cake.”(私はケーキをナイフした〈切った〉)になるだろう。
ニュースピークの語彙には大きく分けて「A語彙群」「B語彙群」「C語彙群」の3つの分類が存在した。
A語彙群
主に日常生活で用いる為の単語グループ。オールドスピークに既に存在している単語の多くから成り立っていたが、先に述べたようにそれぞれの単語は語義が極端に制限されていた上、語彙の削除・統合を経てオールドスピークと比較するとその語彙の数は極端に少なくなっていた。
B語彙群
主に政治目的で生み出された造語のグループ。使う者に党にとって都合の良い思想を刷り込む為の単語であった為、イングソックの思想を完全に理解し信じ込んでいる者でなければ正しく使用する事は困難であった。
その最大の特徴は語源を把握できないほどにまで極端に短縮した造語であった。例えば「Ingsoc(イングソック)」はオールドスピークに直すと「English Socialism(英国社会主義)」となるが、「Eng-」を「Ing-」に変化させ、「Socialism(社会主義)」を「soc」に略す事で元となった単語がそれぞれ持っていた意味が脱落し、「英国」「社会主義」ではなく「イングソック」そのものを表すように変化させた物であった。
これは単に「発音のしやすさ」「語呂の良さ」に配慮しただけでなく、「単語から連想できる物事を制限する」という明確な目的の元で意図的に行われた物であった。これこそオセアニア政府が目指したニュースピークの機能であり、真の目的は「意識と言葉を切り離す(=言葉の意味を思考させない)」事であった。
ジョージ・オーウェルはこうした事は現実に発生した現象であると述べ、「Comintern(コミンテルン)」を例にして「Communist International(共産主義インターナショナル)」は2つの単語から様々な物事が連想されるが、「Comintern」に略してしまえば「コミンテルン」という組織そのものとその教義しか分からなくなると指摘している。
この他、語彙の統合も同様に行われており、無論それは政治目的で行われた物であった。イングソックと相容れない、もしくは党にとって都合の悪い思想・概念を表す言葉は全て「crimethink(犯罪思想)」「oldthnik(旧思想、旧思考)」の一語でまとめて表された。
一つの短い単語に様々な意味を詰め込んだ物であった為、A語彙群での言い換えやオールドスピークへ翻訳する際にはどうしても長々とした文章となってしまう事がしばしばあった。
例えばニュースピークの “Oldthinkers unbellyfeel Ingsoc.” (日本語に訳せば「旧思考者はイングソックを〈盲目的かつ熱狂的に〉信じず」になるだろうか?)をオールドスピークで可能な限り短く表現すると以下のような長文ができ上がる。
“Those whose ideas were formed before the Revolution cannot have a full emotional understanding of the principles of English Socialism.” (革命以前に思想が形成された人々は、イギリス社会主義の諸原理に対する完全な感情的理解を得る事はできない) |
C語彙群
主に科学・技術面を補う為の単語グループ。オールドスピークに存在する科学用語とほぼ同じ物が使用されていたが、例によって政治的意味は全て排除され、他の語群と同様の管理が施された。
もっとも、ニュースピークでは「科学」という概念そのものを表す言葉は存在せず、科学的思考自体が思想犯罪とされていた。
ニュースピーク対応表
本項では、『1984年』内で用いられたニュースピークの用語とオールドスピーク(英語)、そして日本語訳との比較を示す。
ニュースピーク | オールドスピーク | 日本語訳 |
---|---|---|
Crimestop | - | 犯罪中止(思想犯罪に繋がる思考を止める) |
Crimethink | - | 犯罪思想、犯罪思考 |
Doublethink | - | 二重思考 |
Duckspeak | - | アヒル語り |
Ficdep | Fiction Department | 創作局 |
Goodsex | - | 良性交(健全な性・純潔) |
Goodthink | - | 正統、正統派的に思考する |
Ingsoc | English Socialism | イングソック、英国社会主義 |
Joycamp | - | 歓喜キャンプ(強制労働収容所) |
Miniluv | Ministry of Love | 愛情省 |
Minipax | Ministry of Peace | 平和省 |
Miniplenty | Ministry of Plenty | 豊穣省、豊富省 |
Minitrue | Ministry of Truth | 真実省、真理省 |
Newspeak | - | ニュースピーク、新語法 |
Oldspeak | - | オールドスピーク、旧語法 |
Oldthink | - | 旧思考 |
Ownlife | - | 個人主義的な逸脱した行為 |
Prole | Proletariat | プロレ(労働者) |
Prolefeed | - | プロレの餌、プロレフィード(プロレ向けの娯楽やプロパガンダ) |
Recdep | Records Department | 記録局 |
Sexcrime | - | 性犯罪(性的悪行全般) |
Speakwrite | - | 口述筆記機 |
Teledep | Teleprograms Department | テレスクリーン番組制作局 |
Thinkpol | - | 思想警察(いわゆる秘密警察) |
Unperson | - | 否在人物(蒸発した人物) |
余談
『1984年』の巻末付録に「ニュースピークの諸原理」という、名の通りニュースピークについて解説したエッセイがあるのだが、これは全てオールドスピーク(本来の英語)で、なおかつ過去形で書かれている。本記事の解説もここから出典している。
過去形で英語で評論されている事から、ある推測が浮かび上がる。それは、「イングソック体制が何らかの要因で崩壊し、イングソックもニュースピークも全て過去の物となった未来に書かれたエッセイなのではないか?」という物である。
ただし、これを裏付ける証拠は示されておらず、「ニュースピークの諸原理」もストーリー本編とは独立した章である事に留意。
また、作中に登場する用語ではないが、ニュースピークと同じく作中のキーワードとなる「二重思考」を絡めた「ダブルスピーク」と呼ばれる俗語が作り出されている。
「一つの言葉で矛盾した二つの意味を同時に言い表す表現方法」として、都合の良い言い換え、言葉の綾を批判的に意味する語として用いられているようだ。