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雑賀衆の編集履歴2012/07/07 02:35:26 版
編集者:榊の龍
編集内容:親記事を「戦国時代」から「戦国武将」に変更。

雑賀衆

さいかしゅう

雑賀衆とは、戦国時代の紀伊国(現在の和歌山県)に勢力を持っていた地縁の一揆集団。鉄砲による戦闘技能の高さと、傭兵活動で知られる。鈴木孫一や土橋守重などが有名。

概要

応仁の乱以後に現れた、土豪や小領主の連合による自治組織。紀伊国の南側にある雑賀荘、十ヶ郷、中郷、南郷、宮郷の五つの地域で構成され、各地域の代表による合議制で物事を決めていた。ただし、この五つの地域だけで少なくとも約60の家があり、代表は輪番制であったらしい。傭兵稼業をしており、紀伊国守護の畠山氏の要請で度々出兵している。鉄砲の伝来以後はいち早くそれを取り入れ、より強力な戦闘集団へと成長していった。また、雑賀衆のいた地域は一向宗が強く、本願寺との関係が深かった。ただし全員が門徒だった訳ではない。

土地の貧しい雑賀荘、十ヶ郷と肥沃な土地に恵まれる中郷、南郷、宮郷に分けられる。後者は農業中心だったが、前者は海運や貿易、製塩、そして傭兵などで生計を立てていた。他に他国への技術指導も行っていたらしい。後世の傭兵集団というイメージはこの前者の活動に拠っているところが大きい。この二つのグループの仲は良好とは言えず、特に雑賀荘と宮郷は度々武力衝突を起こしている。なお、鈴木孫一鈴木重秀)は十ヶ郷、土橋守重は雑賀荘の出身である。

頭に何かを戴くことを嫌い、守護の畠山氏とは一定の距離を保ち、信長や秀吉のような天下人には反抗した。本願寺とも明確な上下関係にあったとは言えないようである。内部も特定の指導者がいないため一枚岩とは言えず、各々が結構好き勝手に行動している。

活動

畿内に進出してきた織田信長が本願寺と敵対すると、法主顕如の求めに応じて本願寺方の主力として戦闘に参加。僧兵を持たない本願寺の主力として活躍した。その一方で中郷、南郷、宮郷は最初織田方にも兵を送っていた。その極めて高い戦闘技量でしばしば織田軍を苦しめ、一度は信長自身も負傷するほどの大敗を与えた。その結果、危険視した信長によって約十万の軍で本拠紀伊国を攻められる。これに雑賀衆は鈴木孫一、土橋守重ら約二千の兵で抗戦。これは雑賀衆の巧みな戦術と他の反織田勢力の動きもあり、信長は撤退。名目上は雑賀衆の降伏となっているものの、織田家の実質的な敗北に終わる。雑賀衆はその後すぐに反旗を翻し、信長は佐久間信盛父子を大将に再び大軍を送るもまたも制圧に失敗している。

やがて本願寺が織田家と講和すると、それを受け入れて退去してきた顕如を迎え入れる。しかし、この頃になると親織田の鈴木家と反織田の土橋家の対立が表面化。孫一が守重を暗殺して主導権を握る。しかし、本能寺の変で信長が死去すると今度は土橋家の生き残りが盛り返して孫一が出奔に追い込まれている。信長の死後に台頭した豊臣秀吉には一貫して抵抗を続け、徳川家康と結んだりもしている。しかし、時流には逆らえず、徳川と和睦した秀吉に攻められて壊滅した。生き残りは帰農するか、全国に散らばって大名に仕え、「雑賀衆」という名前は消滅した。

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